チコリーの多菜畑農園https://tanabata-farm.comチコリーのミックスリーフを育てていますSun, 19 Oct 2025 10:19:25 +0000jahourly1https://tanabata-farm.com/wp-content/uploads/2024/08/cropped-5c02f3334d9763664cb4ef6b8a7bd373-32x32.webpチコリーの多菜畑農園https://tanabata-farm.com3232 東漸寺蹟(とうぜんじあと)https://tanabata-farm.com/rural-landscape/temple-touzen/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=temple-touzenFri, 14 Nov 2025 09:05:42 +0000https://tanabata-farm.com/?p=7486

千葉県茂原市郊外の小さな空間から、少し不思議な旅へとお誘いします。 ※「東漸寺蹟」という表現は、こちらの碑文を基に、Webサイトが便宜的に付けさせて頂きました。 目次 01. 弓渡山東漸寺について 02. 東漸寺と東漸 ...

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千葉県茂原市郊外の小さな空間から、少し不思議な旅へとお誘いします。

更新記録

2025年11月14日    「東漸寺蹟」を公開しました。

各コーナーの内容について

ご紹介している各コーナーの記述内容は、誤りの訂正、表現の修正、追加の記述などを必要に応じて行っています。
なお、大きな修正変更の場合はその内容を明記させて頂きます。

夏の東漸寺蹟です。
一面をチガヤが覆っています。

奥まった場所に建てられた「弓渡山東漸寺之蹟」と刻まれた
石碑が、ここに寺院があったことを示しています。

東漸寺という寺名が明示されています。

この時代、どのようなお寺の姿だったのでしょうか。
地図に載せられているということは、明治初期の廃仏毀釈を乗り越えたのでしょうか。

※「東漸寺蹟」という表現は、こちらの碑文を基に、Webサイトが便宜的に付けさせて頂きました。

01. 弓渡山東漸寺について

やはり真言宗から日蓮宗に改宗させられたようです
弓渡山東漸寺の創立は不明です。当初は、真言宗寺院でした。
当初からかは明らかではありませんが、現在の茂原市七渡(ななわたり)に在った龍堂寺(りゅうどうじ)の末寺でした。

1488(長享2)年の土気城主酒井定隆の命による強制的な改宗令により、日蓮宗(法華宗京都妙満寺派=現在は顕本法華宗と呼称)の寺院となったとされています。
近隣の東福山本大寺(茂原市萱場)や宝常山円立寺(茂原市粟生野)の改宗も同じ時代に行われています。

本山の龍堂寺での、真言宗僧侶たちへの改宗強要と寺院施設の破壊は徹底的だったと記録されていることから、末寺の東漸寺もその災禍は厳しいものだったのかも知れません。

改宗の際の真言宗寺院での宝物、什器などは徹底的に廃棄され、穴に埋められました。
その地点が、「経塚」として伝えられました。

龍堂寺の跡地に新たに創られた日蓮宗の龍鑑寺(りゅうかんじ)の末寺として昭和時代中期まで存続しました。
最後は、堂宇の老朽化のため、1951(昭和26)年に解体されました。

弓渡山東漸寺についての記録などは、どこかに残されている可能性もあるかと思われますが、確認できた資料は、「豊岡村誌」(豊岡村誌編纂委員会 編 1963年刊)の短い記述だけでした。

弓渡山東漸寺の名残り

お寺が在ったことを示す痕跡は、いくつかの石碑しか残されていません。

しかも、小さな空き地の奥まった場所にまとまられているので、気付かれることもあまりないのかと思われます。

石碑についてのご紹介は、もう少し判読ができた時点で、加筆させて頂きます。
摩滅(まめつ)がひどいものはないのですが、コケなどで読み難くなっています。

1951(昭和26)年に堂宇が老朽し、解体することになった際、建立された「号渡山東漸寺之蹟」と刻まれた石碑です。

背面には、「号渡區一結 昭和廿六年春建之」と刻まれています。

「弓」を「号」としている理由は不明です。

「号渡山東漸寺之蹟」碑の右隣に、小さな祠(ほこら)が佇んでいます。

中に祀られた小さな像からも、鬼子母神の祀で間違いありません。
地元の方から伺ったお話しでは、この祠は今でも信仰が続いています。

まとまったテーマとなりますので、改めてご紹介します。

02. 東漸寺と東漸

東漸寺は日本各地に存在します
Wikipediaによると、東漸寺は北海道から九州までほぼ全国に寺名が見られます。
また、あらゆる宗派が挙げられていて、特に日蓮宗に偏っているわけではありません。
中でも、関東地方には数の多い少ないはありますが、すべての都県に合計24寺を確認できます。千葉県については、関東7都県では最も多い9寺があり、県内全域に分散しています。

茂原市近郊の東漸寺としては、隣の長生郡一宮町一宮(曹洞宗)、いすみ市国府台(日蓮宗)、市原市月出(天台宗)、東金市三ヶ尻(顕本法華宗)が挙げられます。

東漸という言葉
今回、「東漸寺蹟」というテーマをご紹介する機会を得て、初めてこの言葉を知りました。
国語辞典を引くと、「勢力などが次第に東方へ進み移ること。『文明の―』」と示されています。
当たった資料には、「仏法東漸」または「仏教東漸」という組み合わせで出会いました。

平山郁夫画伯と仏教東漸

こちらは、日本画壇に大きな足跡を残された平山郁夫氏(1930(昭和5)年~2009(平成21)年)が中央に進み出るきっかけとなったされる作品「仏教伝来」です。
1959(昭和34)年第44回院展に出展し、入選しました。

広島で被爆した平山氏は、10数年後から原爆後遺症による強度の貧血に悩まされるようになります。
そこからの死への不安から、心の救済と平和への祈りを絵の題材を求めていました。
その頃、小さな新聞記事から「東京オリンピックの聖火をシルクロード経由で運ぶ」というプランがあることを知ります。それが、仏教伝来の道を描く草案となりました。

構図は唐代の高僧・玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)がインドから仏典を持ち帰る途中のシルクロードのオアシスを通る様子を描いています。以降、仏教の日本への伝来をテーマにした作品を数多く発表されました。

平山郁夫氏ご本人が、「東漸」という言葉をお使いになったかどうかは、確認できません。
紀元前5世紀にインドに釈迦が誕生して仏教が興ってから、経典の誕生を経て、約千年をかけて、6世紀半ばに日本に伝わり、「仏教東漸」は完了します。
仏教の日本への伝来をテーマとしてシリーズのように作品を描き続けられました。今も多くの各地の美術館などでの企画展では、「仏教東漸」という表現でのテーマ紹介がされています。

画像は、図録「平山郁夫展:仏教伝来への道」(中国新聞社 1981刊)国立国会図書館デジタルコレクションより
作品は、佐久市立近代美術館(長野県佐久市)所蔵

どのような過程を経て、「東漸寺」と名付けられたのでしょう。
「東漸」に込められた思いは、とても慈悲深くて、また、壮大な願いを込めているように感じました。

※「仏教東漸」をキーワードに、「クスノキノート」でご紹介している「吉野寺」(よしののてら)とつながるのですが、かなり難しい内容のため、もう少し勉強してからご紹介させて頂きます。

03. 東漸寺の経塚

こちらの画像は、1959(昭和34)年頃に撮影された「弓渡の経塚」です。これは、東漸寺に由来します。
現在の豊岡小学校の敷地内にあったようです。

後年取り壊されて、今は存在しないとのことですが、やはり痕跡も残されていないのでしょうか。

(写真集明治大正昭和茂原ふるさとの想い出  
海保四郎編 国書刊行会 1984年刊による)

なお、「豊岡村誌」にも別の画像が掲載されています。

上総七里法華と経塚
すでに失われたとはいえ、弓渡の経塚は画像で確認ができる貴重なものです。
現在の茂原市内では、実際に遺跡としてでも伝わっている経塚は確認できません。

一方で、小字名として伝わり、昔、経塚というものが存在したことを連想できることもあります。

「茂原市の地名と伝説」は、星野正氏の自費出版による書籍ですが、現在の茂原市全域の小字名を調査、記録された貴重な資料です。
地区によっては、相当数の小字名を確認でき、中にはかなりユニークな名称も見られます。

経塚または御経塚という地名(ここでは小字名)は、詳しく調べることは難しいのですが、上総七里法華のエリアには、所々に残されているようです。

なお、小字名は登記簿上では、弓渡であれば、
「茂原市弓渡字経塚」
と記載されます。

もちろん、住居表示などで小字名まで使われることはありませんが、地元の域内では、日常生活の会話の中で使われることがあります。

今に伝わる経塚

こちらは隣りの大網白里市永田に今も残る旧光昌寺の経塚です。
日蓮宗への強制的改宗の令が出た際、寺院の境内に仏具などを埋めたとされています。
周囲は田畑で、古くは寺院が在った事など、想像できない現在の環境です。

大網白里市の文化財に指定されています。

なお、金珠山光昌寺は同じ永田地区内の別の場所に再建されました。

(2026年1月12日撮影)

ここまでご紹介した「経塚」は、上総七里法華という”強制的改宗”により生まれた遺構と言えるかと思います。
従って、その域内に限られて残された独特の「経塚」となります。
広く、一般的に歴史の中で、使われる「経塚」についてもこの機会にご紹介します。

史跡の「経塚」について

史跡としての経塚とは、主に、仏教経典を書写し供養した後、陶器や金属などの容器に入れ、地中に埋めて塚状にしたモニュメントを指します。また、時代により、塚に対しての信仰行動の違いにより、形態には大きな変化が見られます。

経塚として造られ始めた年代は詳しくは不明ですが、12世紀(平安時代後期から鎌倉時代初期)に最も盛んに造営され、江戸時代にまで続きました。ここでは、深いご紹介は避け、代表的な古代から中世の経塚について、触れておきます。

平安時代中期頃から日本は「末法思想」が次第に広がり、仏の世が遠ざかり、世の中のあらゆる事物も滅んでゆくという考え方に包まれました。
そこで、当時の貴族層、僧侶、神官などの有識者層を中心に、仏教信仰の中で、経典をこの危機を乗り越えてもらい、自らも来世での幸福を祈るべく、経塚の造営が広く行われるようになります。
同時に埋められた物品は、経典だけでなく、魔除けのための鏡や刀、写経に使った筆や硯、そして埋経者に因む生活用品など多くの物が知られています。

今に伝わる主な経塚を簡単にご紹介します。

葛城二十八宿経塚(かつらぎにじゅうはっしゅくきょうづか)和歌山県和歌山市、
修験道の祖とされる役小角(えんのおづぬ:634?~701?)が、修行のために仏法の世界として見立てた葛城の峰々28カ所に法華経八巻二十八品(ほん)の経典を一品ずつ経筒にいれて埋納しました。
第一経塚は和歌山市沖の友ヶ島にあります。

日本最古の経塚とされています。末法思想からの経塚造営の広がりより、はるか以前の例です。

金峯山経塚(きんぷせんきょうづか)奈良県吉野郡吉野町 金峯山寺・金峯神社
藤原道長(966~1027)は、1007(寛弘4)年金峯山に参拝し、自筆の法華経など15巻を金銅製経筒に入れて、埋納しました。
また、道長のひ孫の藤原師通(ふじわらもろみち:1062~1099)も、1088(寛治2)年に自筆の法華経など12巻を埋納しました。他にも、白河法皇など多くの有力者が埋納する、規模の大きな経塚となりました。

埋納された経典や経筒などの遺物のいくつかは、国宝や重要文化財に指定されています。
末法思想からの造営流行のごく初期に当たる例となります。

朝熊山経塚群(あさまやまきょうづか 国指定史跡) 三重県伊勢市朝熊町経ヶ峰
経塚信仰の最盛期での大規模な遺構です。40基ほどの経塚が確認されています。
朝熊山の頂上付近に建てられた勝峰山金剛證寺(しょうほうざんこんごうしょうじ)は、欽明天皇(509~571)時代の創設とされる臨済宗南禅寺派の古刹で、神都伊勢の霊山として信仰を集めました。
経塚は金剛證寺東側の経ヶ峰の斜面にあり、1959(昭和34)年の伊勢湾台風による森林破壊が起きるまでは、スギやヒノキの大木に覆われていました。

明治年間に1173(承安3)年と刻まれた陶製経筒が発見され、経塚の存在が知られるようになります。
そして、伊勢湾台風によりなぎ倒された跡地の整理作業の中で、多くの埋経遺品が発見されました。

陶製経筒には在銘(埋経を実行した年号を刻む)されたものも多く出土し、1156(保元元)年から1186(1186)年の約30年間を中心に造営されています。全国的に経塚造営が最盛期を迎えた時期とほぼ一致します。
また、埋経を行った有識者は、神宮祀官(じんぐうしかん:内宮・外宮に仕える神職)や僧侶が中心で、神宮と仏教が密接に結びついていた証しとも理解できます。

出土品は、「朝熊山経ヶ峰経塚出土品」として、一括して国宝に指定されています。金剛證寺に併設されている「宝物館」に収蔵されています。

こちらは第三経塚出土の国宝「線刻阿弥陀三尊来迎鏡像」(せんこくあみださんぞんらいごうきょうぞう)の2点ある内の1点です。
中央に阿弥陀如来坐像、(画像では明瞭ではありませんが)やや下の両脇に勢至菩薩坐像と観世音菩薩坐像が刻まれています。
阿弥陀浄土への往生を願う来迎図で、平安末期の来迎図の構図としても貴重なものとされています。

20年以上前のことですが、宝物館を見学しました。
しかし、需要文化財の「木造雨宝童子」は明らかな記憶があるのですが、経塚に関する事物は全く記憶がありません。
残念です。(画像は「目で見る三重の百年」三重県編 1976年より)

04. 東漸寺蹟の今

今も続く習俗―鬼子母神祠への信仰
「犬が死ぬと鬼子母神の祠に集まってお参りします」とお世話になっている弓渡の農家さんの奥様から伺いました。
これは「犬供養」という風習です。
この風習は「子安講」(こやすこう)が、結ばれている地域に伝わっているものです。

講は農村での生活上の互いの助け合いや共同体の維持を目的に形成された地縁集団です。
子安講は、女人講(にょにんこう)のひとつで、山武長生エリアでは、定期的に構成員の自宅などで、「子安大明神」などの掛け軸を飾り、出産や産後の無事を一緒に祈る信仰の形でした。
その内容は講によって様々な形式があります。

後には、女性の会合による一時の娯楽という意味合いも強くなってゆきます。
弓渡の隣りの粟生野でも、子安講は続けられていますが、少子化も著しいことから、少人数での集まりだそうです。

子安講と犬供養
犬供養の風習は利根川下流域を中心に南関東から東北南部にかけて伝わっています。
千葉県側では、利根川に沿って西は柏市から東の香取市にかけてと南端が四街道市、佐倉市の逆三角形状のエリアと、富里市や山武市西部、富里市北部の空白地域を挟んで、九十九里沿岸の山武長生エリアに知られています。

子安講の始まりは、利根川下流域に伝わる石像塔の検証により、江戸時代初期にまで遡るとされています。

それは、出産や月経による血の穢れ(けがれ)のために地獄に落ちる女性を救う如意輪観音(にょいりんかんのん)への信仰が広まったことによります。
やがて女性同士が定例的に集まり、如意輪観音を祀り、念仏を唱和する十九夜講(じゅうくやこう)が構成されます。

時を経て、江戸時代中期以降からは、女人救済から安産と健やかな児の成長へと信仰の対象が緩やかに変化し、集落の親睦を深める役割りの意味も加わり、子安講へと移り行きます。

いつしか、犬について、安産の象徴とも、逆に犬の死は講の不幸にもつながる出来事と考えられ、子安講に犬を供養するという追善が生まれることになります。

こちらは、「文化遺産オンライン」の「延命寺の十九夜塔」(千葉県白井市)です。
女人講または、十九夜講を構成する人々による寄進により、1670(寛文10)年に建てられました。
この画像からは確認できませんが、隣りの印西市、八千代市などには、台座に「女人講中」や「十九夜講」と刻まれている十九夜塔が多く残されています。

そろそろ弓渡に戻らなければなりません。
でも、もう少し、寄り道させてください。

こちらの画像は、子安講の際に、床の間に飾られる掛け軸です。
「印西町史 民俗編」(印西町史編さん委員会 1996年)から借用しました。

山武長生での子安講に用いられる掛け軸は、「子安大神」と大きく文字書きされたものが主流のはずですが、画像が入手できず、こちらを使わせて頂きました。

また、茂原市などの長生郡市では、茂原市腰当(こしあて)の子安神社から、掛け軸を借りて来て、子安講に使い、講が無くなる際には、神社に返すとのことです。
(「子安講からみる千葉県山武市平野部の文化と地域コミュニティ」長谷川幸裕さん 筑波大学付属駒場高校による)

日蓮宗と鬼子母神信仰のつながり
古くから、日蓮宗と鬼子母神は、深い結びつきがありました。

古代インドにおいて、鬼子母神は、元は人間の子をさらって食べる鬼神でしたが、釈迦の説法を聞き、改心し帰依(きえ)することになります。
その時の釈迦への誓いが、
「我、法華経を受持するものを護り、その子孫をも守護せん」(「法華経」陀羅尼品だらにほん第二十六)
と、伝えられており、このことが、鬼子母神は日蓮宗の信者を護る守護神とされる原点となりました。

また、日蓮聖人自身も、十羅刹女(じゅうらせつにょ:鬼子母神と共に法華経を守る10人の鬼神)や鬼子母神たちが法華経を信じる者たちを護る、と書簡などで述べています。

こちらは、富山県高岡市の大法寺に伝わる長谷川等伯(信春)筆「鬼子母神・十羅刹女画像」(1564(永禄7)年)です。
国の需要文化財に指定されています。

長谷川等伯(1539(天文8)~1610(慶長15))は、安土桃山時代の代表的な画人です。
国宝「松林図屏風」など数多くの名作が現在に伝わっています。

33歳で京都に出るまでは、出生地の石川県七尾市を中心に能登から加賀、越中方面で法華経関係の仏画や肖像画を描きました。
この作品は、落款(らっかん)により、等伯の若い時の制作年代がはっきり確認できる作品の一つです。

鬼子母神が、最上部の右側に描かれ、相対してその配偶神とされる半支跏大将(はんしかたいしょう)を配し、従うように下に十羅刹女のそれぞれが描かれています。

本来、法華経の経文では、十羅刹女が主、鬼子母神が従とされていますが、日蓮宗の信仰が広まり時を経る中で、鬼子母神が主で十羅刹女は従う娘たちのようになり、やがて、鬼子母神一身への信仰へと移り行きます。

鬼子母神はこちらでは、美しく雅やかな女神様として描かれていますが、日蓮宗派での鬼子母神信仰は、やがて、恐ろしい鬼形の様相を呈した画像や彫像が多数を占めるようになります。

現在の日蓮宗の各宗派での、鬼子母神を祀る上での方式は様々なものがあるようです。
改めて、コンパクトにご紹介できるようにしたいと思います。

東漸寺の鬼子母神祠
やっと、弓渡に戻ってきました。

東漸寺の宗派である顕本法華宗では、「主尊は本堂の御本尊(題目)であり、鬼子母神はその守護を担う存在」とされています。

そのため、本尊として祀られるのは「大曼荼羅」であり、鬼子母神は本尊と共に祀られてはならず、寺院境内などにお堂や祠を建てて祀ることとされました。

極端には古い印象ではない祠ですが、鬼子母神信仰の経緯を考えれば、重い存在に思えてきました。
いつの頃から、ここに居られるのでしょうか?

大曼荼羅とは

題目「南無妙法蓮華経」と書かれた周囲に漢字・梵字で記された仏・菩薩、仏弟子、天台系の学僧たち、インド・中国・日本の諸神々の名号などを配置した大型の掛け軸で、日蓮聖人が仏の悟りの世界を文字で表現したものです。

大曼荼羅は顕本法華宗などの日蓮系諸宗派での本尊とされています。

こちらは、茂原に近い長生郡睦沢町の高藤山妙勝寺に伝わる、「日通上人曼荼羅」です。1695(永禄8)年に茂原の古刹鷲山寺(しゅせんじ)23世日通上人により、書かれました。
鬼子母神も必ず書かれていると思いますが、見つけられませんでした。


弓渡山東漸寺については、まだ、分からないことだらけなので、折に触れ、調べて行きます。

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クスノキノートhttps://tanabata-farm.com/nature/kusunoki/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=kusunokiTue, 10 Jun 2025 09:01:02 +0000https://tanabata-farm.com/?p=7441

目次 01.クスノキとの出会い 02.クスノキという樹木 03.出会ったクスノキ 04.クスノキの文化史 1. 和船とクスノキ 2. クスノキの彫刻 01.クスノキとの出会い クスノキが身近な木になったのは伊勢市に暮らし ...

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更新記録

2025年7月20日    「平成の玉虫厨子」の紹介と説明を追加しました。

2025年7月 2日    「丸木舟(目録)」(大網白里市デジタル博物館)へのリンクを設定しました。

2025年6月15日    「巨樹|樹の国・日本」(タグ:クスノキ)へのリンクを設定しました。

2025年6月12日    「現光寺縁起絵巻」についてのYouTube動画へのリンクを設定しました。

2025年6月10日    「クスノキノート」を公開しました。

各コーナーの内容について

ご紹介している各コーナーの記述内容は、誤りの訂正、表現の修正、追加の記述などを必要に応じて行ってゆきます。
なお、大きな修正変更の場合はその内容を明記させて頂きます。

※特に、こちらの「クスノキノート」につきましては、思いがけず、多くのテーマの集合になりました。
再構成を含め、今後、折々に修正や追記などを行うことになります。
あまりにも長いご紹介になりましたので、樟脳に関する内容などは、「クスノキノート 2」(仮称)の公開に回させて頂きます。

01.クスノキとの出会い

クスノキが身近な木になったのは伊勢市に暮らし始めてからです
30代半ばから三重県伊勢市で暮らしましたが、折々に伊勢神宮を始めとする多くの神社には、必ずと言っていい程、クスノキがありました。

こちらは、近畿日本鉄道の宇治山田駅前に鎮座する箕曲中松原神社(みのなかまつばらじんじゃ)に合祀されている楠社(くすのやしろ)です。
樹齢800年といわれるクスノキをご神体としています。
転居前に住居を探すために訪れた際に、初めて出会った伊勢市のクスノキとなりました。

長く住んだ住居近くの外宮摂社、田上大水神社(たのえおおみずじんじゃ)のクスノキです。
古墳のような塚状のお社で、小さいながらも神宮を形成する独特の厳かな雰囲気に癒されました。
ヒメハルゼミもここから少ないながら発生し、画像はその抜け殻を写した時のものです。

ヒメハルゼミについて

ヒメハルゼミは、関東から西の限られた常緑広葉樹の林に生息する小型のセミです。
普通にどこでも見られる種ではなく、古くからの木々が集まった照葉樹の林がある、神社、仏閣の社叢を中心に生息しています。

茂原市には国の天然記念物に指定されている生息地があります。

「鶴枝ヒメハルゼミ発生地とヒメハルゼミ」でご紹介しています。
(画像をクリックしていただくと別ウィンドウで開きます)

今の身近なクスノキ

千町農園の入口から見たクスノキの姿です。

農園の中からも見ることができますが、やはり、木の頂上のわずかな部分だけなので、こちらの画像をご覧いただきます。

(少し遠くのように見えますが、すぐ隣です。)

小高造園さんの敷地にある4本のクスノキです。

根本には紅白のウメの木が生えていて、冬期にはきれいなコントラストを見せてくれます。

4本の内、最も東(向かって左)側の1本は、地上から1.3メートルの高さでの幹の太さを測ってみると、3.5メートル位でした。

日本全国のクスノキの巨樹と比べれば、とても及びませんが、環境省の「巨樹・巨木林データベース登録マニュアル」では、3.0メートルを超える樹木を巨樹とするとされていますので、その規定に照らせば、巨樹「千町のクスノキ」となるかと思います。

02.クスノキという樹木

種としてのクスノキ

クロンキスト体系とAPG体系

ともに被子植物の分類体系です。
クロンキスト体系は、1980年代にアメリカ合衆国の植物学者、アーサー・クロンキスト(1919~1992 専門はキク科植物)が提唱しました。
それまでの主流だった新エングラー体系に加わる、ストロビロイド説(原始的被子植物から各植物群が進化したと仮定する)による分類体系で、APG体系が提唱されるまでの主要な植物分類体系で、現在でも使われています。
その後、DNA解析による分子系統学の発展により、被子植物系統グループ(Angiosperm Phylogeny Group)が、1998年にゲノム解析から実証的に構築した分類体系を提唱しました。
これが「APG体系」や「APG分類体系」と呼ばれるもので、すでに学術先端分野での主流な分類体系となっています。

クスノキを例にすれば、クロンキスト体系にある綱(Class)亜綱(Subclass)に代わり、類(Magnoliids)を設定しています。

クスノキの姿

巨樹に目が行き勝ちなのは当然ですが、自身が関わる空間にクスノキの成長過程を示してくれる光景に出会えたことはクスノキとの縁を思うとともに、若いクスノキが無事に巨樹となるまでを祈ると言うか、不思議な思いがしています。
(2025年2月15日 追記)

クスノキの分布

日本のクスノキの分布図です。分布地域と分布標高を合わせて示されています。
かなり詳細な資料ですが、こちらでは概要図としてご覧ください。

関東地方から西側の太平洋沿海部に連続的に分布していることが確認できます。
日本海側でも、西側から断続的に若狭湾周辺まで分布していることになります。

また、九州以外は標高の高い山岳地域には分布しておらず、沿岸部を中心に生育していることが分かります。

関東地方の神奈川県、千葉県付近が自然分布の北限とされ、茨城県、栃木県などの巨樹となるクスノキは人の手で植えられた可能性が高いようです。
但し、資料によっては、本来の自生域は、九州から屋久島の間で、それ以外は人の手で植栽されたものが広がったとしているものもあります。
それでも、それらのクスノキも、生育場所がどのような環境であろうとも、それぞれに一つの自然の姿として人々に受け入れられ、大切にされているのだと思います。

日本国外の分布
自然分布(自生域)かどうかは、資料により多少の差がみえますが、中国、台湾ほか東アジア、東南アジアに広く分布しています。
移入種としては、ほぼ生育可能な全世界に分布しているようです。

クスノキは外来種?
いろいろな資料を読ませて頂きましたが、従来は外来種の可能性が高いものの、断定的なものはほぼ見られません。

しかし、比較的最近の研究から、日本のクスノキは外来種でも史前帰化植物でもなく、自然な形で定着し、現代まで生育している種とされています。

その研究では、クスノキの日本産個体群と中国・台湾産個体群の葉から抽出した試料に基づく遺伝子分析から、両方の個体群の遺伝子データに明らかな大きな違いがあることが確認されました。

また、日本産クスノキは、氷期のボトルネック現象により、多様性が低い固有の遺伝的地域性を持つことになったとされています。
(「有用樹木の利用・分散プロセスが、野外自然集団に及ぼす影響」亀山慶晃氏 東京農業大学教授 2016年によります)

ボトルネック現象とは

地球は、人類が進化してきたここ100万年間は、氷期と間氷期が交互に約10万年の周期で気候の大きな変動が起きてきたとされています。
その氷期では、生物にとって、集団の個体数が急激に減少することで遺伝的多様性が著しく減少することになります。
このことを指して、ボトルネック現象(あるいは効果)と呼んでいます。
これは、生物の進化の過程でしばしば発生し、個々の生物種の適応能力や進化の方向性に大きな影響を与えるとされています。
なお、人類も約100万年前の氷期に、アフリカの狭い地域だけに約1300人まで減少した可能性があるとされています。
この時期のボトルネック現象により、人類の遺伝的多様性は著しく縮小した一方で、結果的に、一定の遺伝的特徴が固定化され、現代人の特徴の一部がこの時期に形成されたと考えられています。
(Yahooニュース 2025年1月22日 「100万年前に人類は1300人まで急減少した?謎のボトルネック現象でアフリカに集中した人類への影響」スペースチャンネル によります)

03.出会ったクスノキ

長太(なご)の大楠(三重県鈴鹿市南長太町)

伊勢平野にそびえる「孤高」の巨樹
名古屋方面からの近鉄特急に乗り、近鉄四日市から白子(しろこ)に向かう間、通過駅の長太ノ浦(なごのうら)を過ぎて間もなく、右側の車窓に広がる伊勢平野に一本の大きな木が見ることができます。
誰もがちょっと目をひかれる風景です。

このような独立して生えているクスノキはその存在感も大きく、また、周囲にさえぎるものが無い巨樹としても全国的に珍しいそうです。

樹齢は1000年を越えるとされるこの大クスは、地元では「大クス保存会」も結成など方々の保護活動により、1959(昭和34)年の伊勢湾台風を始めとする被災から、何度も樹勢を回復してきました。
2020(令和2)年9月の落雷では、根の7~8割にダメージを受けたとされる危機的な状況になりましたが、土壌改良などの多くの治療が施され、回復の兆しが出てきてくれているようです。

こちらでご紹介している画像は、落雷の損傷を受ける以前の姿です。
情報によれば、まだ緑色の葉をここまで繁らせているとは思えませんが、少しずつでもこのような元気な姿を見せてくれるようにと祈っています。

幸田文「木」に長太の大クスが描かれていました

文豪・幸田露伴の次女で、作家・エッセイストの幸田文(こうだあや 1904(明治37)年-1990(平成2)年)が、長太の大クスを訪れた時のことを、「松楠杉」と題したエッセイの中に書いておられました。
この機会にご紹介しておきます。

「木」(新潮文庫 1995年12月1日刊)
「松楠杉」の初出は、「學鐙」(1982年10月号)によります。

北の隣りは楠町(くすちょう)です

四日市市楠町は、中世には伊勢湾の海上交通の拠点となり、南北朝時代に楠城が築かれ、豊臣秀吉に滅ぼされるまでの200年余りの間、付近の中心地として栄えたところです。

また、鈴鹿川と鈴鹿川派川の周辺は、伏流水も含めた良質な水が確保しやすく、紡績や酒造などの工場が早い時代から稼働しています。

松下社の大クス(三重県伊勢市二見町)

松下地区の氏神、松下社の社叢にある樹齢2000年ともされる大クスです。

国道42号線沿いのアプローチしやすい場所です。

1937(昭和12)年三重県の天然記念物に指定されています。
(2006年2月23日撮影)

松下社は、主な祭神は素戔男尊(スサノオノミコト)とされており、神社に関わる蘇民将来の伝説と「蘇民将来子孫」から、正月飾りのしめ縄を一年中飾る伊勢周辺(松阪市嬉野町以南地域)独特の風習のルーツとされる神社です。

社殿は伊勢神宮の各お社に似た姿だったと思います。
本殿とは別に藁葺きの絵馬殿(?)が並んで建てられており、やや大型の古い絵馬が多く奉納されていました。
その一部ですが、左は「源頼朝富士の巻狩り図」右は「中国故事図」です。

神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)のクスノキ(三重県松阪市

神服織機殿神社は、伊勢神宮内宮の所管社で、神宮を構成する一社ですが、内宮とは20㎞ほど離れた、松阪市大垣内町(おおがいとちょう)に鎮座しています。
所管社としては、かなり広い社域のお社です。

当時、新規にオープンしたイオンモール明和店に近かったため、徒歩でよく訪ねました。

(2006年4月3日撮影)

この神服織機殿神社では、内宮の重要な神事、神御衣祭(かんみそさい)に供える和妙(にぎたえ、絹布)の儀式的な奉織行事が、地元住民の方々の奉仕により、毎年5月と10月に行われます。

神服織機殿神社の本殿(左)と八尋殿(やひろどの 右)です。

八尋殿には機織り機があり、この中で奉織作業が行われます。

南に2kmほど離れた神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)で奉織される荒妙(あらたえ、麻布)と合わせて、皇大神宮とその別宮荒祭宮での神御衣祭で奉じられます。

水屋(みずや)神社の大クス(三重県松阪市飯高町)

伊勢市での最後の年に、松阪飯南森林組合の事務所での講習会に参加した際に、こちらの大クスを訪ねることができました。

ごく短時間の旅でしたが、神社と巨樹が迎えてくれた光景は、すばらしいものでした。

水屋神社は奈良・春日大社と関係が深い、歴史ある神社です。
(2012年7月4日撮影)

社叢は、クスノキを始め、ムクノキ、カゴノキ、スギ、ケヤキ、サカキの巨樹で一杯でした。

幾種もの巨樹が同じ社叢で生育しているのは珍しいように思いました。

大クスの根元近くに掲げられた案内板です。
お伊勢さま(天照大神)と春日の神(天児屋根命 あめのこやねのみこと)の国境を決めたという伝説です。

クスノキの巨樹を訪ねて
「タグ:クスノキ|記事一覧」
に直接移動します。

日本全国の巨樹を紹介されているWebサイト「巨樹 樹の国・日本」にクスノキも数多く紹介されています。

日本各地のクスノキへの旅をお楽しみください。
(別ウィンドウで開きます)

04.クスノキの文化史

日本文化の中でいろいろな形で利用されたクスノキについて、できる限りいろいろ取り上げてご紹介します。

1. 和船とクスノキ

クスノキの丸木舟
丸木舟の起源は縄文時代初期に遡(さかのぼ)ります。
日本各地でいろいろな木を材料にした丸木舟が発掘されています。
クスノキは古くから丸木舟の素材としても使われていました。
こちらで紹介するのは、江戸時代に発掘されたクスノキの丸木舟についてです。

1838(天保9)年閏4月に尾張国海東郡諸桑(もろくわ)村(現愛知県愛西市諸桑町)の満成寺の裏の川ざらえをしていた際に、クスノキの丸木舟が発見されました。
余りに大きく、3日がかりで3分割して掘り出したと伝えられています。

「尾張名所図会」巻7 岡田啓・野口道直撰 小田切春江画 1841(天保12)年成立(国立国会図書館デジタルコレクションより)

この丸木舟は全長21m、幅1.9m、深さ30㎝あり、船首・胴・胴・船尾の4材を縦につないで作られていました。造船史の用語で複材刳船(ふくざいくりぶね)と言います。

その後、名古屋に運ばれ、栄国寺で開かれた見世物小屋で展示され、人気を博しました。

近年になって、14C年代測定の検証から、7~9世紀(弥生時代中期)頃に、クスノキの新旧の各材を組み合わせて作られたと推定されています。

こちらの画像は愛西市のホームページ「史跡・文化財等」の「複材くり船(諸桑の古船)」を借用しています。
現在は、破片が残されているだけですが、愛西市の「佐織歴史民俗資料室」に展示されています。

クスノキの丸木舟
時代を経て、1990(平成2)年6月に静岡県静岡市清水区北脇新田の巴川(ともえがわ)右岸の河川改修工事中に発見されたクスノキの丸木舟についてのご紹介です。

長さ5.15m、最大幅1.34mで、14C年代測定から約800年前の鎌倉時代前期に作られたとされています。

ここで注目されるのは、この丸木舟の保存技術です。

これまで、発掘されるクスノキの埋蔵物は、保存処理の中の薬剤浸漬(しんし)の際に、必ずねじれや割れなど変形が起き、原型を保存するのが難しい種でした。
その原因は、クスノキ独特の交錯木理(こうさくもくり)という、木本体の縦方向の木繊維の並び方の特性によります。

この巴川の丸木舟の保存処理にあたり、最終の真空凍結乾燥(フリーズドライ)処理の事前準備段階で、遺物本体に変形を起こすことなく、最終処理ができる配合割合が設定され、発掘時の姿をほば完全に近い形で保存できるようになりました。

現在、静岡市埋蔵文化財センターに常設展示されています。(静岡県埋蔵文化財センターとは別の施設です。)

クスノキの丸木舟③
茂原市の隣、大網白里市でもクスノキの丸木舟が発掘されていました。

1972(昭和47)年、国鉄(当時)大網駅の複線電化工事の際、地下2mほどの土中から杭が刺さったような状態で、発見されました。

長さ4.3m、幅0.55mあり、大きな一本のクスノキを刳り抜いて作られ、弥生時代のものとされています。

現在は、館山市の「渚の博物館」(館山市立博物館分館)で保管、展示されています。
画像は、「大網白里市/大網白里市デジタル博物館」の「<26>丸木舟出土地点」から借用しています。

大網白里市デジタル博物館のデータをご紹介します

大網白里市が公開している「大網白里市デジタル博物館」は、房総半島九十九里浜に面した一都市の歴史や豊かな文化の数々を広く紹介するWebサイトです。

クスノキノートからは、「丸木舟(目録)」へのリンクをご案内しますが、
そちらから、デジタル博物館のトップページへ移動できます。
(画像をクリックしていただくと、別ウィンドウで開きます)

安宅船と日本丸
安宅船(あたけぶね)は、室町時代後期から江戸時代初期に建造された、大型の水軍用和船です。
古代の丸木舟から引きつづき、太平洋沿岸や瀬戸内海で作られた和船の主な素材は、クスノキでした。

その中で、第一次朝鮮の役の際、豊臣秀吉の命により、九鬼嘉隆が伊勢の大湊(おおみなと:現三重県伊勢市大湊町)で建造した大型安宅丸「鬼宿(きしゅく)」は、出征に当たり集結した肥前名護屋城で、秀吉から「日本丸」と改名されました。

この「日本丸」は、伊勢鳥羽志摩地方の大きなクスノキを集めて建造されました。
朝鮮軍との戦いでは、海軍戦は劣勢で、日本側はかなりの数の軍船を失いますが、旗艦船としての役割を果たした日本丸は、休戦後、日本に帰還しています。

関ヶ原合戦を経て、江戸時代に入ると、日本丸は鳥羽藩の所有船となり、江戸幕府の指示で縮小改造され、「大龍丸」と改称されました。

その際、船首にクスノキ製の龍の彫刻が取り付けられました。(画像の左上の円内)

龍の彫刻は、神宮徴古館で保管されていましたが、大戦時の空襲による火災で失われました。

なお、この大龍丸は、鬼宿としての建造から約260年後の、1856(安政3)年に解体されています。
画像の船は、伊勢大湊の市川造船所が製作した日本丸の精密な模型です。
昭和初期に海軍省が市川造船所に依頼して制作され、東京の旧逓信博物館に展示されていたものと、同様な作品かと思われます。
市川造船所の創業家が、門外不出として保管されていたものですが、2024(令和6)年にその親族により、伊勢市に寄贈されました。
日本丸の画像は、「九鬼水軍の栄光と輝き1 2」(歴史文化財ネットワークさんだ)から借用しています。

市川造船所と旧市川造船所資料ついて

市川造船所は、鎌倉時代に始まっていたとされる伊勢大湊での造船業の中の一企業で、創業1702(元禄15)年から2006(平成18)年に完全閉鎖となるまで、日本の造船史でも重要なものを含め、数多くの船舶を建造しています。
※倒産は、1978(昭和53)年ですが、労働組合の自主活動により、船舶の修理などで造船施設は維持され、閉鎖となるまで事業は続けられました。

廃業後に廃棄される可能性があった6万点に及ぶ貴重な造船に関する資料は、旧市川造船所労働組合の社員の方々などの努力により、2014(平成26)年に伊勢市に寄贈されて、「旧市川造船所資料」として保存されています。

内容は、船舶や設備の図面や船具、船舶模型など広範囲の資料があり、特に和船から西洋型船への建造が移り変わる明治から昭和にかけての、他ではほとんど残されていない非常に貴重なものとされています。
2020(令和2)年には日本船舶海洋工学会の「ふね遺産」に認定されました。

2. クスノキの彫刻

クスノキ製の木彫仏

記録に残る日本で作られた最初の仏像はクスノキ製でした
「552(欽明天皇14)年に河内国泉郡の茅淳の海(ちぬのうみ=大阪湾)に浮かんでいた「光を放つ樟(くすのき)」から天皇の命により二体の仏像が作られた。それは、今、吉野寺(よしののてら)で光り輝いている」(「日本書紀」巻第19)
と記されています。
これが、文献上の日本最初の木彫像製作の記録とされています。

そして、今に伝わる6世紀後半から8世紀にかけての、飛鳥・白鳳時代の木彫仏はクスノキで作られました。
代表的な仏像をご紹介します。

救世(くぜ)観音菩薩立像
奈良・法隆寺 夢殿

弥勒菩薩半跏像
奈良・中宮寺

四天王像
奈良・法隆寺 金堂

クスノキで木彫仏が作られた要因
素戔嗚尊(スサノオノミコト)が、自らの胸毛でクスノキを生やし、髭から生やした杉と共に、船の材料に使うよう指示したと「日本書紀」巻第1神代上に記録されていることなどから、当時の工人は樹種の特徴を理解し、製造物に合った木材の種類を活用していたと推定されています。

それでも、6世紀中頃から始まったとされる木彫仏の製作に、クスノキ材が使われたことはいくつかの要因があるとされています。

クスノキは、「魂ふり」の力を持つ霊木のひとつとされていました。
魂ふりとは植物、動物、鏡などの呪物が、その強い生命力、霊力によって、人の魂を活気づけ、衰えた肉体をも生き生きとさせるという作用力を意味しています。
常緑広葉樹のクスノキは、製材化したの後も樟脳(しょうのう)による神秘的な香りと対虫性、耐久性から邪悪なものを追い払うともされました。
つまり、クスノキ製の木彫仏は自身に霊的な力を持ち、それを人々が拝むことは霊的な救済につながると考えられました。

吉野寺(よしののてら)の今

光るクスノキ製の仏像が祀られたとされる「吉野寺」は、「比曽寺(比蘇寺 ひそでら)」のことを指すとされています。
所在地は、現在の奈良県吉野郡大淀町(おおよどちょう)比曽です。

比曽寺は、飛鳥時代(7世紀後半)には存在したとされる、東塔・西塔の三重塔を伴った薬師寺式伽藍配置の大規模寺院でした。

かつての寺域一帯は1927(昭和2)年、国指定史跡「比曽寺跡」となっています。
吉野寺は、寺院名や宗派の変更と繁栄と衰退の繰り返しを経て、現在も曹洞宗寺院の霊鷲山世尊寺(せそんじ)として、”存続”しています。

日本書紀に記された光るクスノキに関係する所縁(ゆかり)の文化財をご紹介します。

本尊阿弥陀如来坐像(放光樟仏)
光を放つクスノキ製の像として伝えられていますが、実際はヒノキの寄木造りで、1700(元禄13)年「放光仏再興」のための修理を行ったと記録されています。
一方で、頭部と体部の前面には広葉樹の古材が使われています。

どこか、飛鳥仏を思わせる表情です。


画像は、大淀町Webサイトからの借用です。

現光寺縁起絵巻
奈良時代の比曽寺は、平安時代になり、光る仏像に因み「現光寺(げんこうじ)」となります。
今、世尊寺に伝わる「現光寺縁起絵巻」は、飛鳥時代の創建から鎌倉時代の再興までの間の縁起が、上下2巻に描かれています。

比曽寺(現光寺)が世尊寺として復興される直前の17世紀後半に、京都狩野派の絵師によって制作されたと考えられています。

(いずれも絵巻の一部分です)
(左)茅淳の海から引き揚げられたクスノキを天皇(欽明天皇)の許(もと)に運んでいる様子です。
(右)命じられた池辺直氷田(いけべのあたいひた)が、クスノキから釈迦如来と観音菩薩の二像を彫る姿です。

絵巻では、作られた二像は、大和国豊浦堂(とゆらどう=豊浦寺:明日香村)に安置された後、災難を免れ、吉野寺に移されたという流れになっています。

現光寺縁起絵巻はYouTube動画が公開されています
大淀町制作による現光寺縁起絵巻の詳しい動画がご覧いただけます。(画像をクリックすると別ウィンドウで開きます)

現光寺縁起絵巻ダイジェスト版
光を放つ仏さま~現光寺縁起絵巻の
世界~

奈良時代後半からの木彫像の素材はクスノキからカヤに代わります
奈良時代後半以降、木彫像の材木は針葉樹のカヤ(榧/栢)が使われるようになり、クスノキは全くと言えるほど、使われなくなります。

ご紹介した世尊寺には、本尊の阿弥陀如来坐像とは別に、十一面観音立像も伝わっており、頭部は補作ですが、カヤ材の一木造りで、奈良時代後期の制作とされています。
像内からは、鎌倉時代から江戸時代の古文書、経典など貴重な品が発見され、その価値が認められ、奈良県の指定文化財となっています。

クスノキ製の伎楽面(ぎがくめん)

飛鳥時代に作られた伎楽面はほぼすべてクスノキ製です
1878(明治11)年に法隆寺から当時の皇室に献納された31点の伎楽面は、現在、東京国立博物館法隆寺宝物館に保管されていますが、その内19点(未完成2点を含む)の飛鳥時代の作品は、クスノキで作られています。
奈良時代に作られたキリ材や乾漆(かんしつ)材製を含む、31点すべてが国宝に指定されています。
伝来の元の中国や朝鮮半島には伎楽面は伝わっておらず、世界的にも貴重な舞踊芸術品です。

一部をご紹介します。


710(宝亀11)年に作製された「西大寺資財流記帳」(さいだいじしざいるきちょう)の記録から、伎楽には14種23面の仮面が使われたとされています。
ご紹介した仮面以外に、師子(しし)、金剛(こんごう)、迦楼羅(かるら)、呉女(ごじょ)、婆羅門(ばらもん)、太孤児(たいこじ)の仮面があります。
この内、師子児と太孤児が2面ずつ、酔胡従が8面あり、合計23面となります。

日本への最初の伎楽の伝承は、「日本書紀」に記されています。


612(推古天皇20)年に百済からの帰化人、味摩之(みまし)が、呉(くれ=中国)で学んだ、伎楽(くれがく)の舞を「桜井」の少年たちに教えた。


聖徳太子絵伝」(しょうとくたいしえでん)に描かれた伎楽伝習の光景です。
左上隅に描かれた男性が「味摩之」さんでしょうか?
聖徳太子41歳の事績(じせき)とされています。(10面の内の第5面)

こちらの画像は、国宝「綾本著色聖徳太子絵伝」秦致貞(はたのちてい)1069(延久元)年の一部分です。
現在は、東京国立博物館法隆寺宝物館に保管されていますが、元は法隆寺東院の絵殿(えどの)の障子絵として飾られていました。

伎楽は中国の江南地方から伝えられた仮面舞踏劇で、滑稽な所作を採り入れたパントマイム(無言劇)でした。
伝来後、伎楽は奈良時代にかけて、東大寺の大仏開眼供養(752(天平勝宝4)年)の際に大規模に上演されるなど、仏教行事として盛んに演じられましたが、平安時代には徐々に廃(すた)れたとされています。

奈良時代になるとキリ(桐)や乾漆で伎楽面が作られるようになります
木彫仏の材木が、奈良時代後半頃からカヤ材に代わるのと同じように、伎楽面はクスノキからキリ材や乾漆(かんしつ)材が使われるようになります。
※(ここでの)乾漆:麻布や和紙を漆(うるし)で塗り固める技法です。

「延喜式」によると、奈良の法隆寺、東大寺、大安寺、西大寺などの寺院には伎楽団が置かれ、盛んに演じられるようになると、伎楽面は軽量化が図られます。
伎楽面の重さについての詳しい資料は見ることはできませんが、キリ材は明らかにクスノキ材より軽量です。

現代に甦(よみがえ)る飛鳥時代の伎楽面

2018(令和元)年に東京国立博物館と文化財活用センターの共同事業により、飛鳥時代のクスノキ製伎楽面の内、「呉女」と「迦楼羅」の復元模造品が制作されました。
京都の松久宗琳佛所(まつひさそうりんぶっしょ)が制作にあたりました。
復元品もクスノキが使われています。

(左)国宝 伎楽面「呉女」と復元模造品

(右)国宝 伎楽面「迦楼羅」と復元模造品

画像は、文化財活用センターWebサイト「ぶんかつブログ」→「よみがえった飛鳥の伎楽面 前・後編」から借用しています。

玉虫厨子とクスノキ

国宝玉虫厨子は、本体の大部分はヒノキ材で作られていますが、台座の彫刻部分の蓮弁(ハスの花びら)はクスノキが使われています。
玉虫厨子の実物は、奈良・法隆寺の大宝蔵院に安置されています。

こちらは、「平成の玉虫厨子」です。
画像は、2008(平成20)年12月に東京の国立科学博物館でイベント展示された時のものです。

現在は岐阜県高山市の「茶の湯美術館」で常設展示されています。

岐阜県飛騨地方の文化継承や観光資源の開発などに尽力された事業家、故・中田金太氏の主導で2004(平成16)年から4年かけて制作されました。

この大掛かりなプロジェクトでは、実物の再現を目指した「復刻版」とデザインは同一ながらタマムシの翅を広範囲に使って再表現した「平成版」の2基の玉虫厨子が同時に作られました。

木喰仏とクスノキ

木喰(もくじき)上人(1718(享保3)年-1810(文化7)年)は、江戸時代後期の遊行僧(ゆぎょうそう)・仏像彫刻家・歌人で、北は北海道から南は鹿児島県までの各地を巡り、訪れた社寺などに一木造りの仏像を刻んで奉納しました。

出身は現在の山梨県南巨摩郡身延町古関(ふるぜき)字丸畑(まるばたけ)です。
当地の名主、伊藤家に誕生し、14歳で故郷を離れ、江戸を転々とした後、22歳で相模国大山不動で出家し、45歳で常陸国水戸で木喰戒を受け、自身は「木喰行道」と名乗りました。

その後、1773(安永2)年56歳から、日本全国へ修行の旅を開始し、93歳で没するまでの30年以上の年月を、一部の期間を除き、短い逗留を繰り返す中で、700体余りとされる木彫仏を制作し各地に残しました。

こちらは、新潟県長岡市の寶生寺(ほうしょうじ)に西国三十三観音像と共に奉納された、上人自身の自刻像です。
1804(文化元)年、上人87歳の作品です。
作風の特徴とされる「微笑」もよく現わされています。
(にいがた観光なび「寶生寺」より借用)

円空仏と比べて
木喰上人と同じく、江戸時代に中部地方を中心に北海道南部にまで、数多くの木彫神仏を残した遊行僧としては、円空(えんくう)上人(1632(寛永9)年―1695(元禄8)年)が知られています。

円空は、木喰より約1世紀前に現在の岐阜県羽島市竹鼻町(たけはなちょう、上中町との説もあります)に生まれ、生涯に渡り制作した神仏像は、現代に伝わっている作品だけでも5300点余りになります。
保育社のカラーブックス「円空仏」や新潮社のとんぼの本「円空巡礼」など一般書籍化されています。

円空の荒削りで野性的な作風に対し、木喰は微笑を浮かべた温和な作風(Wikipediaなど)とされていますが、作品数では大きく上回る円空仏には、木喰仏のような柔らかな微笑みを浮かべる神仏像も見ることができます。

使用している木材の種類には、違いが見られます。
円空仏がスギ、ヒノキが多いのに対し、木喰仏にはスギ、ヒノキ、イチョウ、クスノキ、マツ、カヤ、トチノキなど多種の木材が使われています。
それは、円空が多くの種類の神仏像を、あらゆる姿で数多く制作しようとしたため、制作地でも入手しやすく、彫りやすいスギ、ヒノキを主体に使ったとされています。
一方、木喰は制作地に生える木の種に拘った(こだわった)ところを感じ取ることができます。

クスノキで刻まれた木喰仏

五智如来像(宝生 薬師 大日 阿弥陀 薬師)
宮崎県西都市大字三宅 木喰五智館

日向国分寺にて1792(寛政4)年から1794(寛政6)年にかけて制作されたとされています。                                   

木喰上人は1788(天明8)年から1797(寛政9)年まで、日向国分寺の住職として、滞在します。
しかし、その間、1791(寛政3)年に火災に見舞われ、その復興活動の中で、この5体の如来像の制作にあたりました。

木喰仏では珍しくクスノキの寄木造りで、5体とも高さ3m前後の大きさです。

(西都ゆるなび「国内最大級の坐像|宮崎県西都市の日向国分寺跡・木喰五智館を巡る」より借用)

山根生木地蔵菩薩座像(立木仏)
山口県山口市大内氷上(おおうちひかみ) 山根観音堂裏

1799(寛政11)年 木喰上人81歳の彫像とされています。
クスノキの生木に刻まれた地蔵尊は、木の成長と共に幹に包まれた姿になりました。

日蓮大師像
山梨県南巨摩郡身延町帯金(おびかね)金龍寺(きんりゅうじ)

1801(寛政13)年 木喰上人83歳の作品です。
金龍寺は日蓮宗の寺院で、木喰仏の日蓮聖人像は、こちらが唯一の作品です。

(身延町地域資料「木喰上人」より借用)

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昆虫の凧https://tanabata-farm.com/museum/insect-kite/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=insect-kiteSun, 08 Dec 2024 07:47:11 +0000https://tanabata-farm.com/?p=7801

目次 01.昆虫の凧について 02.日本の昆虫凧の分布図 02-1.せみ凧 02-2.あぶ凧 02-3.ちょう凧 02-4.はち凧 02-5.その他の昆虫凧 03.アイキャッチ画像の答え 04.中国の昆虫の凧 01.昆虫 ...

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更新記録

2025年6月15日    「長崎歳時記について」を追記しました。

2024年12月8日    「昆虫の凧」を公開しました。

各コーナーの内容について

ご紹介している各コーナーの記述内容は、誤りの訂正、表現の修正、追加の記述などを必要に応じて行っています。
なお、大きな修正変更の場合はその内容を明記させて頂きます。

また、今ご覧頂いている、こちら「昆虫の凧」の内容につきましては、公開後も修正や追加する内容が多く、ご報告なしで行わせて頂くことになりそうです。

01.昆虫の凧について

こちらでご紹介する「昆虫の凧」は、伝統的な日本の凧の中からとさせて頂きます
凧の歴史については、当然のことながら、テーマとしては深く広いものとなります。
現在まで記録として伝わっている日本の凧の形は、奈良時代前期以前、または、白鷗期以前からのものといわれ、文献での最古の記録は「肥前風土記」(713年:和銅年間)に記されているものとされています。
この期の文化の多くは朝鮮半島経由を含め、中国からの伝来で、凧についても同様とされています。

その後、日本の凧は独自の発展を遂げ、現在まで伝えられています。娯楽としての凧あげは、もはや、珍しい光景となっています。
しかし、祭りやイベントとしての凧あげは盛んに行われ、工芸品としての凧作りは数多く伝統を維持され、一度絶えた凧が復活することも見られるようになってきました。
ここでは、文献や資料、Web上の情報から、日本の昆虫凧についてご紹介します。

今でも熱烈な凧の愛好家は多く、中には独自の凧を製作され、昆虫を象った凧を作り、楽しんでいる方もおられます。
何かの機会にお見受けした時には、ご紹介させて頂きます。

02.日本の昆虫凧の分布図

日本海側に昆虫をかたどった凧は見当たりません
昆虫の種類ごとに分布図を作ってみました。

日本海側にも多くの凧が引き継がれていますが、昆虫をモチーフにした凧は、新潟県の白根大凧合戦の役凧のデザインにチョウが3カ所の町のシンボルとして使われている以外には、確認できませんでした。

新潟県の蛸(たこ)の凧やカレイ凧、山形県の亀凧などの主に魚類をモチーフにした凧や福島県会津地方の会津唐人凧や島根県松江市のみしや凧、隠岐のえぐり凧など複雑な形の凧もあります。

ここで、空白地域となっている地域に、昆虫の凧が作られなかったとは、断定できません。
むしろ、今に至るまでわずかな記録でも伝わっていることの方が、とても貴重な事のように思えます。

日本海側の昆虫の凧の記録に出会いました

「うなゐの友」がWebで閲覧できるようになって、福井の凧としてあぶ凧(?)とちょう凧が確認できました。

「うなゐの友」は、清水清風(しみずせいふう 1851~1913年)が、1893年から発行した日本全国の玩具図録です。
1~6編まで清風が刊行し、その死去の後を西沢笛畝(にしざわてきほ 1889~1965年)が引き継ぎ、10編まで作られました。

(2025年1月11日追記)

画像を入手できた凧は、その下に製作地名を表示しています。

02-1.せみ凧

分布の傾向
関東地方から西、九州北部にかけて、東西を結ぶほぼ直線状の地域に分布しています。
日本の凧として最も多く記録されている昆虫です。

やや意外なのは、凧合戦も各地で行われ、凧の製作地もとても多い静岡県には、横須賀凧のせみ凧とかなり昔の三川村(現袋井市)のせみ凧が確認できただけでした。

多くの凧が作られたのは、セミが凧にしやすく、虫としてもごく身近な親しみやすい存在だったからでしょうか。
全く別の論考を示した資料もありますので、改めてご紹介したいと思います。

せみ凧の形状
種類數が多いことから、その形も製作地ごとに様々です。
特に、はねの部分がよく揚がるように、風袋(かざぶくろ)の構造を持つものが多いのですが、それが無い凧も同じ数ほど確認できました。
また、骨組みは、昔の東京の駄菓子屋さんで一銭凧(より昔は一文凧)と呼ばれるようなとても簡略化されたものから、愛知県名古屋市の古流凧群や静岡県の横須賀凧のせみ凧など複雑な構造をしているものなど、様々な姿になっています。

02-2.あぶ凧

分布の傾向
関東地方と愛知県を中心にした東海地方、そして近畿地方まで確認できました。
愛知県名古屋市に伝わる古流凧は、江戸初期からアブの形が初めに作られ、多くの形が創作されました。
セミに比べ、製作地は少ないものの、今まで確実に作り続けられています。

キャンプなどで、林間を流れる川の近くに夏期に訪れる方は、体験されるかも知れませんが、アブは鬱陶しい虫でしかありません。
最近は、夏の農作業で、アブにまとわりつかれる機会は少なくなりましたが、刺されればとても痛いものです。
これまた、カヤカヤファーマーのしょうもない疑問ですが、迷惑でしかないアブがなぜ凧のモチーフに多くの地域で取り上げられているのでしょう。

なお、日本の凧の起源とされる中国の凧にはアブ凧はあまり作られていないようです。

あぶ凧の形状
装飾用の名古屋市の縁起凧を除き、風袋(かざぶくろ)を備えています。
骨組みで、風袋の両方の先端で交差させる構造がほとんどです。

なお、神奈川県伊勢原市、厚木市のあぶ凧は元々アブ凧とされていましたが、最近の復活製作では、せみ凧(地元ではセンミ凧)として、伝えられているようです。

02-3.ちょう凧

分布の傾向
昆虫などの種レベルの表現では、稀種(きしゅ)となるかと思います。
製作された記録が有る地点はわずかです。

沖縄県那覇市のハビルフータンはチョウそのものの形ですが、凧そのものではなく、揚げる際にタコ糸に取り付けて、糸を伝って凧の方に昇っていく姿を楽しむパーツのような存在です。

ちょう凧の形状
昆虫のチョウそのものの形状をした凧は、江戸時代に著わされた「長崎歳時記」の「蝶ハタ」と装飾用の名古屋縁起凧以外は確認できませんでした。

ほぼデフォルメされた形態のものばかりでした。
一見してチョウだとは思えない凧もあります。

滋賀県八日市市の大凧は、開催する年のテーマによってデザインも変わります。
デザインは、願いの意味を表現しており、「チョウ(蝶)+寿+祝」で「長寿を祝う」を表しています。

日本の凧として、ちょう凧は確実に存在しています。
なお、長崎市の伝統行事、ハタ合戦で使われているデザインに、チョウを取り上げたものがあるようですが、入手できませんでした。

02-4.はち凧

分布の傾向
確実に今も製作されていますが、全国的に希少な種となります。

はち凧の形状
あぶ凧に近い形状ですが、名古屋古流凧では唯一の形で、ハチを忠実にかたどった凧が見られます。

また、同じ愛知県安城市の桜井凧は、ご紹介しているはち凧、あぶ凧、ちょう凧が作られていますが、他にも天神凧やからす凧といったすべて風袋を持つやや複雑な骨組みをした凧たちが伝わっています。

こちらで、はち凧としてご紹介している三重県伊勢市の凧は、「おもちゃ画譜(川崎巨泉著 1934年)」に掲載の画像に別資料のカラーを取り込んだものですが、同じ形態の凧が「ふるさとの凧(斎藤忠夫著 1982年)」に新宮の「蝶々凧」として掲載されています。
新宮の凧と伊勢市(旧宇治山田市)の凧には何らかのつながりがあったのでしょうか。

02-5.その他の昆虫凧

改めて、ご説明することではないのですが、むかで、あり、くもは正しくは昆虫ではありません。
いわゆるムシと言えるかと思いますので、ここでは昆虫として扱わせて頂きます。

分布の傾向
昆虫の種そのものがそれぞれ異なりますので、分布の傾向という表現は適さないかも知れません。
ただ、他の昆虫の凧とほぼ同じ地域に分布しています。

その他の内容
ここでは、むかで凧が主要な凧になります。
中国起源の凧であることは、ほぼ間違いないのですが、窓口の長崎以外の東日本でも作られた記録があります。

今回、昆虫の凧をご紹介するに当たり、あらかじめ、存在を知っていたものの、初めて、画像で見た神奈川県小田原市のむかで凧との出会いはかなりの驚きでした。
すでに、昭和初期には作られなくなっていたはずのこのむかで凧は、今、「相模の大凧センター」(神奈川県相模原市南区 れんげの里あらいそ内)で展示されています。

布製の赤く長い舌をつけた、全体の長さが5メートルに及ぶともされるこの凧が、どのような過程で、小田原市で作られるようになったのか、それよりもそもそも売れたのか、興味深いものがあります。

くもの巣凧は、資料からの画像をそのままアップするしかなく、他に説明なども見あたりません。

あり凧は、相坂耕作氏が著わされた、「郷土の昆虫凧」(姫路昆虫同好会 1994年「遊蟲千年」所収)の中で神奈川県秦野市での記録に触れられている以外、確認できませんでした。

大阪市のこつま凧については、元資料の「ふるさとの凧」では、何の昆虫かは示されていないため、種の同定が困難ということで、こちらでご紹介しました。

ちょう凧の資料画像に取り入れた「蝶はた」の出典資料は、「長崎歳時記」ですが、そこに百足ばた蜻蜓(へんぷう=とんぼ)はたが記録されています。その内容は、今の時点でははっきりと分からないのですが、この2種類の昆虫の凧がかつて長崎市に有ったことは確実かと思います。

「長崎歳時記」について

長崎歳時記は、長崎の地役人で国学者の野口文龍(のぐちぶんりゅう 生没年不詳)が1797(寛政9)年に発表した2巻1冊の書籍です。

鎖国の中での長崎市内周辺は、南蛮船が渡来して以降の異国の文化と日本古来の風習が入り混じった独特の光景に満ちあふれていました。
その長崎の年中行事、風俗、方言などを図絵を交えて記録しています。

2月の年中行事として「鳳巾(いか=凧)を放ちたのしミとす 鳳巾方言ははたといふ」と記し、13種の凧の名を記録しています。

ご紹介しているのは、絵図となっている凧(「~ばた」と表示)の「劔舞爭」と「蝶はた」の部分です。
こちらは原本とされる九州大学所蔵の文面画像に資料化された「長崎県史 資料編 第4」(1965年刊)の読み下し文を並記してみました。
(蝶はたの右の文に読み下し文が無いのは、資料編の底本が東北大学付属図書館の旧狩野文庫所蔵の写本によるもので、そちらにはこの文がありません。)
なお、これらの「長崎歳時記」の書籍、資料はすべてインターネット上で閲覧ができます。

03.アイキャッチ画像の答え

ここまででご紹介してきた内容をご覧頂ければ、改めての必要もありませんが、こちらの画像のようになります。

ご紹介してきました内容で、すでに回答はお分かり頂けるかと思います。

てんとう虫は、装飾用の愛知県名古屋市の縁起凧に取り上げられていますが、凧そのものを揚げるのではないので、△と致しました。

そして、ちょっとビックリ!せみ凧やあぶ凧はたくさんあるのに、
日本の昆虫の凧にとんぼ凧がないのです。
正直申しまして、今まで「日本にはとんぼ凧が無い」と思い込んでいたのですが、「長崎歳時記」の蜻蜓はたの記述を知り、なぜか、ほっとした気持ちになりました。




この理由をあれこれ考えてずっときましたが、それはもちろん個人で考えるべき範囲での疑問です。
単に気付いただけのこととして、こちらでは、その事実をご紹介させて頂きます。

中国には、多くの種類のとんぼ凧が古くから製作されています。
日本と中国の凧文化の比較、または、昆虫の凧に焦点を合わせた比較につきましては、
改めて付け加えさせて頂きます。

04.中国の昆虫の凧

関連して、アイキャッチ画像で取り上げた日本の昆虫の凧の有る無しを、
そのまま中国の凧に当てはめてご覧いただきます。
(「凧大百科」に掲載されている凧だけを取り上げました)

こちらの画像上の◎の記号は、多くの種類が掲載されている昆虫の凧を表しました。
いなごは「ばった凧」として記録されています。

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赤目川https://tanabata-farm.com/nature/akame-riber/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=akame-riberWed, 30 Oct 2024 10:45:30 +0000https://tanabata-farm.com/?p=7469

「赤目川」 矢部宏氏作 ほのおか館(本納公民館・茂原市役所本納支所)に飾られています。 2018(平成30)年3月に開設されたほのおか館の落成記念として矢部宏氏から寄贈されたようです。 どこか故郷(ふるさと)の原風景を思 ...

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「赤目川」 矢部宏氏作 ほのおか館(本納公民館・茂原市役所本納支所)に飾られています。

2018(平成30)年3月に開設されたほのおか館の落成記念として矢部宏氏から寄贈されたようです。

どこか故郷(ふるさと)の原風景を思わせるシーンにとても惹かれました。
確認はできませんが、県道138号にかかる赤目橋から上流を見ている構図かと思われます。

更新記録

2025年11月16日  コラム「小字名の「赤目川」について」を追加しました。

2025年 5月30日  茂原市御蔵芝の湿地の観察を追記しました。

2024年12月30日  赤目橋から南白亀川合流点までの散策を追加しました。

2024年10月24日  「赤目川」を公開しました。

各コーナーの内容について

ご紹介している各コーナーの記述内容は、誤りの修正、表現の修正、追加の記述などを必要に応じて行っています。
なお、大きな修正変更の場合はその内容を明記させて頂きます。

01.赤目川の概要

赤目川(あかめがわ)は、長生郡白子町で太平洋(九十九里浜)に注ぐ南白亀川(なばきがわ)水系に属する10㎞ほどの小さな川です。

水系の本流となる南白亀川は大網白里市餅ノ木付近の丘陵地を源とし、途中に小中川(こなかがわ)、赤目川、内谷川(うちやがわ)などの支流を合わせ、白子町川岸付近で太平洋に注ぐ、流域面積約116㎢、流路延長約21.7㎞の二級河川です。

南白亀川流域は、その昔から度々洪水などの水害に見舞われ、大正年間から河川改修が始められました。

東日本大震災や近年の豪雨対策のため、引き続き水系の整備が進められています。

南白亀川流域概要図(「二級河川南白亀川水系 河川整備計画」 2018年 千葉県)から引用

赤目川に架けられた橋をスポットにして、地図に落としてみました。

地理院地図(電子国土Web)を利用

02.スポット周辺の風景

上流側と下流側の順でご覧いただきます。
2024年の春から冬に撮影した画像です。
農業用水の取水がある農繁期と狭間の農閑期との景観は異なるかと思われます。

法目堰橋(ほうめせきはし)付近

法目地区は赤目川の上流域になります。一般的な河川の上流の景観とは全く違います。
計測できませんが、川幅は狭く、流れは急に見えます。
源流はJR外房線の本納駅に近い地域にあるとされています。いつか源流域を確認してご紹介します。

萱場橋(かやばはし)付近

法目堰橋から萱場橋の流域は近くまでアプローチできる護岸がなく、急に流路が広がったような光景になります。
萱場橋の上流側は現在も整備工事が続けれれています。
この橋から下流方面の両岸は歩道状になっており、断続的かもしれませんが、赤目橋付近までは歩くことができそうです。

越場橋(こえばはし)

付近の主要な道路にかかる橋で、車の通行も多い場所です。
「豊岡平野」と表現できるような、田園地帯をゆるやかに流れる中流河川の雰囲気が、前の萱場橋からしばらく下流方向に続きます。

鷺田橋(さぎたはし)

農道にかかる小さな橋です。撮影は2024年10月で、セイタカアワダチソウの繁り方がすごいです。
護岸工事で調整された流れは、とてもゆるやかに見えます。
弓渡神社もすぐ近く、春には橋から神社に続く道沿いの桜並木がのどかな美しさを見せてくれます。

豊岡橋(とよおかはし)

前の鷺田橋からこちらの豊岡橋に流れが下ってくる中で、少し付近の景観は変わってきます。
護岸の傾斜がやや急になり、川幅が狭くなってきます。
橋を境に弓渡地内から粟生野と千沢の境界を流れ、付近は民家と田畑が混じる景観になります。

千沢橋(せんざわはし)

赤目川流域全体は平坦地を流れていますが、千沢橋付近から次の赤目橋付近は里山の雰囲気を持った景観になります。
コナラの林や湿地もあり、「何か」がありそうな地域です。
折々のご紹介は、こちらの地域が中心になりそうです。

赤目橋(あかめはし)

県道138号にかかる橋で、下流方向には可動堰が建てられています。

白子町北日当(きたひなた)地内での南白亀川との合流は、堤防の上の歩道を歩いて800mほど先になります。

小字名の「赤目川」について

「東漸寺蹟」を書く際、茂原市の小字名「経塚」について調べていたところ、「赤目川」という小字名があることを知りました。

実際に赤目川の流域である、豊岡地区の粟生野と千沢については関連性が考えられますが、かなり離れた東郷地区の小轡(こぐつわ)と谷本になぜか「赤目川」という小字名があるそうです。

どのような謂れ(いわれ)が有るのでしょう。
少し不思議に思えました。


(2025年11月16日 加筆)

03. 周辺散策

訪れた際に見ることができた、いろいろなシーンをランダムにご紹介します。

大きなコイが数匹水面近くで、うごめいていました。
春の繁殖期を迎えると、このような光景がよく見られます。


(鷺田橋付近 2022年4月10日撮影)

千沢橋近くのコナラ林です。
付近には、コナラと常緑樹が混じった小さな林がいくつか見ることができます。
コナラからは樹液が出ているものもありますので、夏にはクワガタムシやカブトムシも集まって来るのかも知れません。

(2024年4月11日撮影)

千沢橋から赤目橋にかけての流域には、護岸工事が施されていない岸辺があります。

より自然的な印象で、何か生き物が棲みそうな雰囲気がします。

(千沢橋から赤目橋間 2024年8月29日撮影)

赤目川中流から下流では水鳥の姿もよく見られます。
こちらはササゴイです。
ここでは、カワセミが飛び去るのも見られました。

(千沢橋付近 2024年8月29日撮影)

カルガモのグループです。画像には3羽しか写せませんでしたが、7羽ほど集まっていました。

定着しているかは分かりませんが、行けば必ず姿を見ることができます。

(千沢橋から赤目橋間 2024年8月29日撮影)

秋深まる中、久々に千沢橋を訪ねてみました。

カルガモたちはとても迷惑そうに上流の赤目橋の方向に移動して行きました。

(千沢橋から赤目橋間 2024年11月14日撮影)

04. 流域の生物について

付近の環境は注目できる地点は多く、季節折々に少しの時間でも観察する時間を取り、ご紹介したいと思います。
合わせて、読むことが記録資料から、現在に至る変化などもお示しできるように致します。

資料上の記録
1.越冬ツバメの記録
「豊岡村誌」(豊岡村誌編集委員会 1963年 茂原市立図書館蔵)に掲載された内容です。

旧豊岡村は1956(昭和31)年に本納町と合併し、1889(明治22)年の発足から61年でその歴史を閉じました。
「豊岡村誌」は、村の歴史文化をコンパクトにまとめて記述されていて、Webサイトを作る上でとても参考になる書籍です。

越冬ツバメについての情報は全く目にしたことはありませんが、季節になりましたら、注意してみたいと思います。
もちろん、「豊岡村誌」が編集された短期間での出来事の可能性もあるでしょう。

日本の越冬ツバメ

ツバメは、冬を前に日本を離れ、台湾、フィリピンからマレー半島、インドネシアなどの東南アジアで冬を越すことが知られています。
一方、ある程度の個体群は、宮崎県と鹿児島県などの温暖な地域で冬を越しています。
それ以外の地域で、何らかの事情で南方に渡れなかった場合、寒さで命を落とすこともあるようです。

(ツバメ観察全国ネットワーク 「越冬ツバメ」より)

2. 南白亀川水系河川整備計画(千葉県 2018年)に掲載された生物
赤目川限定ではありませんが、下記の生物の種が記録されています。

鳥類:ムクドリ メジロ ハシブトガラス カワセミ シギ・チドリ類 カモ類
魚類:コイ ギンブナ メダカ ナマズ (ニホン)ウナギ アユ カワアナゴ
水生動物:クサガメ モクズガニ テナガエビ スジエビ
ネズミ類:カヤネズミ

少し離れますが、白子町に親族が居て、1970年前後に幾度も訪れた白子町幸治地内の水路では、大きなニホンウナギがよく獲れました。
注目は、カヤネズミです。ススキやチガヤなどイネ科の植物の葉を使って球形の巣をつくり、それを使って生活します。
今までに出会ったことはありませんが、赤目川付近には生息していそうな環境もありますので、いつかはと思います。

05.赤目橋から南白亀川合流点までを歩きました

この日を農作業の仕事納めと決めていましたが、比較的暖かい日でもあったので、思い立って南白亀川との合流点を目指して、堤防の上の歩道を歩いてみました。

このコーナーを設けた時から、合流点まで行きつき、ご紹介してみたいと考えていましたが、この日も思い付きだけで歩き始め、目標まで到着できるかどうかも分かりませんでした。

最初のポイントとなる、北日当1号可動堰です。

赤目橋からも近く、良く目立ちます。

具体的にどのような役目を果たすのか、もう少し調べてから、加えさせて頂きます。

可動堰に付随する橋から、下流側を望む赤目川の光景です。

流れはゆったりとした、主要な川の雰囲気を感じます。

左側に見える堤防道を進んで行きます。

川にくつろぐカモ類もかなりの数でした。
近づくにつれ、みんな飛び立ちます。

カモ類だけではなく、かなり多くの鳥類に出会いました。
ワシタカの仲間も姿を見せてくれましたが、うまく撮影することができませんでした。

光風荘の建物が見えてくるあたりから、堤防の北側に湿地によく生えるハンノキが見られるようになってきます。

その周辺でも、湿地らしい光景が確認できます。
堤防の下をくぐり、赤目川とつながっていますので、水の循環はあると思われます。

更に進むと、一面が枯れたヨシに覆われた湿地が広がっていました。
このようなヨシ原に出会ったのは、久しぶりです。

一部に水面が出ている所も確認できました。
緑の季節が楽しみです。

堤防から水の流れまで近づくことができる細い道がありました。

右に緩やかに曲がった先に南白亀川との合流点があります。

さらに進み、合流点まで行きつきました。
まさにその時、川沿いの茂みから、何かが飛び出し、傍の草に止まりました。
直感的にトンボと思いましたが、やはり、ちょっと信じられませんでした。

アキアカネのオスです。連日の朝の凍結にどうやって生き延びていたのでしょう?

なかなかよく見通せる場所がなく、はっきりとは分かりにくい画像になりましたが、無事、到達しました。

意外に、大きな川のようにも見えます。

予想以上に自然豊かな環境でした
午前11時頃からの1時間弱の機会でしたが、アキアカネの生き残りや猛禽類に出会ったことなど、思いがけない自然の姿を見ることができました。
特に、川面に泳ぐカモ類を始め、ほぼ絶え間なく鳥たちに出会いました。
鳥類の知識には乏しいので、今後、確認できる鳥を少しでも増やしながら、ご紹介できるようにして行きます。

また、今回は、「豊岡村誌」に掲載されていた、越冬ツバメは見ることができませんでした。
合間で、もう少し時間を取って回ってみたいと思っています。

光風荘裏の湿地に行ってきました
2025年5月29日の午前中に時間ができたので、茂原市御蔵芝(みくらしば)に位置する湿地に行ってきました。
やはり、冬とは違い、新緑の藪状態で、湿地に近づくことができたのは、一カ所だけでした。

赤目川本流と湿地を結ぶ排水路(?)に沿って堤防から湿地側にアプローチできる階段が設けられています。
見た目は汚れた水には見えません。
画像の下側が本流方向です。

昆虫など何か見られないかと、しばらく待機していると、大きなナマズのような魚が近づいて来ました。
ゆっくりとそのまま本流側へ泳いで行きました。

月に一度は観察に訪れ、お伝えしたいと思っています。

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「多菜畑農園と自然」参考資料https://tanabata-farm.com/reference-room/rf-nature/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=rf-natureSun, 12 Nov 2023 07:29:51 +0000https://tanabata-farm.com/?p=5402

目次 01.アカボシゴマダラ 02.ネアカヨシヤンマ/ヤンマのリーベル 03. フロントページの生き物たち 01.アカボシゴマダラ Webサイト テーマ名 サイト名 著者/発行者 日付 URL 「アカボシゴマダラ」 侵入 ...

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01.アカボシゴマダラ

Webサイト

テーマ名サイト名著者/発行者日付URL
「アカボシゴマダラ」侵入生物データベース国立環境研究所https://www.nies.go.jp/biodiversity/invasive/DB/detail/60400.html
「アカボシゴマダラ」特定外来生物 同定マニュアル環境省https://www.env.go.jp/nature/intro/2outline/manual/6hp_konchurui.pdf
遺伝的汚染の危機 アカボシゴマダラ多摩森林科学園森林総合研究所https://www2.ffpri.go.jp/cherry/chou/tateha/akaboshi/7_akaboshigomadara.html

書籍

書籍名著者/翻訳者など出版社シリーズ名初版発行日
猪又敏雄/松本克臣山と渓谷社山渓フィールドブックス1995年8月20日

02.ネアカヨシヤンマ/ヤンマのリーベル

Webサイト

テーマ名サイト名著者日付URL

書籍

籍名著者/翻訳者出版社シリーズ名初版発行日
日本のトンボ尾園暁 川島逸郎 二橋亮文一総合出版ネイチャーガイド2012年7月10日
東京都のトンボ喜多英人 須田真一いかだ社2021年8月8日
千葉県の蜻蛉相湘南昆虫研究会1993年1月1日

03. フロントページの生き物たち

Webサイト

テーマ名サイト名著者日付URL

書籍

テーマ名サイト名著者日付URL

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「多菜畑農園の周辺風景」参考資料https://tanabata-farm.com/reference-room/rf-rrld/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=rf-rrldSun, 12 Nov 2023 02:36:05 +0000https://tanabata-farm.com/?p=5391

目次 01.弓渡神社 02.馬頭観音 01.弓渡神社 Webサイト テーマ名 サイト名 著者 URL 丹生川上神社 公式サイト https://niukawakami-jinja.jp/ ”絵馬の宝庫”大網白里 大網白里 ...

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01.弓渡神社

Webサイト

テーマ名サイト名著者URL
丹生川上神社公式サイトhttps://niukawakami-jinja.jp/
”絵馬の宝庫”大網白里大網白里市デジタル博物館大網白里市https://adeac.jp/oamishirasato-city/top/topg/ema.html
驚天動地 高松城水攻めOKAYAMA KANKO.netおかやま観光コンベンション協会https://okayama-kanko.net/sightseeing/info_special/special_10/
【源頼光】の活躍ぶりとは?藤井勝彦歴史人https://www.rekishijin.com/29782
日本の鬼の交流博物館福知山市https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/onihaku/index.html
1702年に海北ケンサイ(友賢斎)によって描かれた祇園社(八坂神社)の絵画(絵馬)国際日本文化研究センターhttps://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/en/detail/printview.html?gid=GH099359&prt=1

書籍

籍名著者/翻訳者など出版社シリーズ名初版発行日
房総の伊勢信仰千葉県神社庁「房総の伊勢信仰」企画委員会編雄山閣2013年9月25日
茂原市絵馬調査報告書 絵馬2005茂原市教育委員会2005年3月18日
絵馬岩井 宏実法政大学出版局1974年5月20日

02.馬頭観音

Webサイト

テーマ名サイト名著者URL
馬乗り馬頭観音市原ふるれんネットhttps://fururen.net/siryoukan/tenji/iseki/batou/batou.html
法華宗(本門流) 大本山 鷲山寺https://jyusenji.sakura.ne.jp/index.html
顕本法華宗総本山 妙満寺https://myomanji.jp/index.html
顕本法華宗 公式ホームページhttps://kenpon.jp/

書籍

籍名著者/翻訳者など出版社シリーズ名初版発行日
房総の馬乗り観音町田 茂たけしま出版2004年7月15日
石の宗教五来 重講談社講談社学術文庫2007年3月10日
塩の道を歩く田中欣一 田北圭一信濃毎日新聞1989年1月20日
伊勢市の石造遺物伊勢市教育委員会伊勢市教育委員会1987年3月31日

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フロントページの生き物たちhttps://tanabata-farm.com/nature/tanabata-nature/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=tanabata-natureMon, 21 Aug 2023 04:44:49 +0000https://tanabata-farm.com/?p=2774

お気付きになられる方もおられると思いますが、昆虫類はほどほどの知識はあるのですが、野菜を作っているのに、植物、特に草花はあまり知りませんし、鳥類も知識不足です。それでも、なるべくたくさんの”自然の仲間”をご紹介したいと思 ...

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お気付きになられる方もおられると思いますが、昆虫類はほどほどの知識はあるのですが、野菜を作っているのに、植物、特に草花はあまり知りませんし、鳥類も知識不足です。
それでも、なるべくたくさんの”自然の仲間”をご紹介したいと思います。

各コーナーの内容について

ご紹介している各コーナーの記述内容は、誤りの訂正、表現の修正、追加の記述などを必要に応じて行っています。
なお、大きな修正変更の場合はその内容を明記させて頂きます。

粟生野の大イチョウ

お借りしている茂原市粟生野の蓮沼の畑近くの大きなイチョウの木です。
大イチョウと呼ばれる樹木と比較したことはありませんが、ちょっと感激します。
目立つ場所に生えているわけではないので、全く知られていないのではないでしょうか。

粟生野円立寺のボダイジュ

茂原市粟生野の堂山の畑近く、墓地の敷地にそびえる大木のボダイジュです。
茂原市指定の天然記念物になっています。
樹齢は800年以上ですが、見た目、とても元気そうです。
6月頃に独特の花をつけるようなのですが、その時期に見に行ってはいませんので、改めて、開花している姿をご紹介します。

カラスウリ

千町農園の近くに、毎年、秋に姿を見せてくれます。
ご紹介するに当たり知ったのですが、食べられるはずがないと思っていたのが、画像にもある緑の熟す前の実は、苦味もなく、みそ汁の具などで食べられるのだそうです。
熟した赤い実は苦味が強いものの、シロップ漬けなど、甘く調理すれば食べられるそうです。

アケビ

千町農園のイヌマキに絡まって、毎年姿を見せるアケビの実です。

わざわざ収穫して食べることはありませんが、熟して落ちた実を一度口にしたことがあります。甘味はそれほどでもなく、ちょっとえぐみがあり、その時以外は手にしていません。
もしかすると、逆に無関心すぎるのでしょうか。

クスノキと紅梅

千町農園の隣りの小高造園さんの敷地に、大きなクスノキが4本並んで生えています。
その下に仕えるように紅梅が2本有って、毎年1月下旬頃から、周囲の中で最も早く、開花します。

茂原ではあまり多くないクスノキと紅梅のコラボです。

モモノキ

「クスノキと紅梅」と道を挟んで、斜向かいの農家さんの敷地にあるモモノキと思われるバラ科の低木です。
サクラが満開になる季節よりやや遅れ、毎年、毎日の千町農園への行き来に出迎えてくれます。

ツ゚マグロヒョウモン

すべてツマグロヒョウモンの画像です。
4番目の画像がメスの個体で、メスにだけ翅の端に紋様が現われます。

元々は三重県から西が分布域でしたが、
今は茂原周辺でも普通に見られるようになりました。

キジ

千町農園をテリトリー(縄張り)の一角にしている「キジのヤマモトクン」です。
よく近くまで来てくれるので、いろいろ呼びかけてみた処、「ヤマモトクーン」と呼びかけた時だけ、独特の鳴き方で応答してくれました。
繁殖期には奥様ともお越しですが、おチビちゃんには出会ったことがありません。

アオマツムシ

今では、本州岩手県まで生息域を広げるコオロギの一種です。
茂原市では、8月のお盆の時期以降、急に「りーりー」という鳴き声が木の上から聞こえてきます。

元々は明治後期に中国南部から入ってきた移入種です。1970年代半ばから急激に生息域が広がり始めました。

バッタとカエルがごあいさつ

もちろん、たまたま写っていた状態です。
ショウリョウバッタとアマガエルという畑にはいつもいてくれる生き物です。

それでも、なかなか出会えない光景です。

オオアオイトトンボ

アオイトトンボ科に属するやや大型のイトトンボです。
身体の色は金属光沢のある緑色で、植物などに止まっているときは、翅が半開きの姿です。
周囲に樹木が多い池や溝がある環境に住み、千町農園に毎年普通に見ることができます。
また、夏ごろから秋遅くまでの長期間、その姿を見せてくれます。

画像は、やや見え難いのですが、オスとメスが連結しているところです。水辺近くの樹木の枝にこの形で産卵します。

クビキリギス

ライフサイクルが秋に卵からかえり、成虫で越冬し、春から初夏に産卵するため、盛夏には見ることはありません。
春に畑近くなどで、「ジー・ジー」という連続音での鳴き声を聞きます。

冬の時期、チコリーの株の間やマルチの中からしばしば出会います。

野川辺りの花

テントウムシ

こちらは「ナミテントウ」という種の画像です。
畑でもっともよく見られるのは、ナナホシテントウという種ですが、他にも何種かのテントウムシに出会います。
チコリーには多くはありませんが、アブラムシも付くのですが、テントウムシは幼虫も成虫も旺盛に食べてくれます。

ベッコウクモバチの狩り

ややグロテスクと言える画像かも知れません。
ただ、決して珍しい光景ではありません。

クモはハチの針からの麻酔薬により、仮死状態です。ハチの地面に掘られた巣穴に運ばれ、ハチの幼虫の餌になる運命です。

オナガグモ

当初は「謎の昆虫」と表していましたが、オナガグモというクモの一種と教えて頂きました。

詳しくは調べていませんが、決して珍しい種ではなく、クモ類を食べる習性があるそうです。

ニホンノウサギ

千町農園の付近では、よく見ることができた姿です。
2023年、最近では出会えていません。
ただ、農園間の移動時に思いがけなく、軽トラの前に飛び出した個体もあり、畑で糞も見ることがあるので、引き続き生息していると思われます。

2024年には、粟生野農園近くで何度となく姿を見せてくれました。なかなか撮影には至りません。

トビ

作業の中で、カラスには季節を問わず、毎日必ず出会います。

画像は、猛禽類(もうきんるい)でも比較的広範囲に生息しているトビとお教え頂きました。
他の猛禽類も生息しているようなのですが、目撃できる機会は多くありません。

2月のコニワハンミョウ

まだ冬の粟生野農園に毎年2月下旬から現れる、甲虫類の仲間です。ハンミョウは肉食ですので、一体この時期に何を餌にしているのか、とても、不思議です。
わずかな作業のひとときに畝の間を歩く中で、足元から前に飛び立ち、程なく、着地するのを繰り返します。

カトリヤンマ

画像は、羽化して間もないメスの個体です。
全国的には珍しい種になっているようですが、多菜畑農園の周辺では、いろいろな形で生息が確認できます。

ウラナミシジミ

千町農園で思いがけず撮ることができた画像です。
珍しい種ではなく、マメ類を栽培されている方には、害虫扱いになります。
ライフサイクルには独特のものがあり、房総半島にもそのストーリーに縁がありますので、改めてご紹介させて頂きます。

ヤマトタマムシ

いつもよく見られる種ではありませんが、千町農園では毎年必ず出会うことができます。

ただ、撮影できる機会には恵まれませんので、以前の画像を使わせて頂きました。

カワセミ

あらゆるスチュエーションに対応できるたくましい鳥です。
その美しい姿から、人気の高い鳥で、いろいろな形で取り上げられています。

餌になる魚類が生息しているならば、細い溝のような環境にも飛来します。
近郊では撮影できていないので、伊勢市での画像をご覧いただきます。

アオドウガネ

草食のコガネムシの一種です。沖縄では幼虫がサトウキビの根を食い荒らすなど害虫ともされています。
もともとは中部地方以西に生息していましたが、関東地方にも急激に分布域を広げ、在来種だった近縁のドウガネブイブイを駆逐してしまうほどになりました。

キアシヒバリモドキ

体長6ミリほどの、コオロギの一種です。

「ヒバリモドキ」という名前は、同じコオロギの仲間の「クサヒバリ」や「キンヒバリ」などの鳴く種に対し、鳴き声を出さない種に付けられたものです。
確かに目立たないので、珍しい種ではないのですが、余り見ることはありません。

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「多菜畑農園の土蔵」参考資料https://tanabata-farm.com/reference-room/rf-museum/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=rf-museumTue, 08 Aug 2023 08:42:03 +0000https://tanabata-farm.com/?p=5217

目次 01.七夕ギャラリー 02.七夕馬 03.上総袖凧 04.鶴枝ヒメハルゼミ発生地とヒメハルゼミ 05.八積湿原の記憶 01.七夕ギャラリー Webサイト テーマ名 サイト名 著者 URL ”京都【亀末廣】の七夕菓子 ...

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01.七夕ギャラリー

Webサイト

テーマ名サイト名著者URL
”京都【亀末廣】の七夕菓子〜乞巧奠・星のたむけ〜”IKUIKUの愉しみ(Amebaブログ)いくちゃんhttps://ameblo.jp/ikuiku-191919/entry-12811026092.html
1年に1度恋を詠む 和歌の家・冷泉家 乞巧奠THE KYOTOhttps://www.kyoto-np.co.jp/articles/thekyoto/675970
京都楽紙館https://www.rakushikan-store.com/
2023京の七夕https://kyonotanabata.kyoto.travel/
松本まるごと博物館https://matsu-haku.com/
松本歳時記https://matsu-haku.com/wp-content/uploads/2021/04/saijiki-s.pdf
2015年5-7月の貴重書展示「千代田之大奥」静岡県立中央図書館https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/contents/library/ref_tenji/tenji_201505-07_2.html
五所川原立佞武多公式サイトhttps://tachineputa-official.jp/
糸魚川根知の「お七夕」新潟県高森春恵日本の小さな姉様たちhttps://konomezuki.com/nihonnoanesama/51-60anesama/52itoigawatanabata/52itoigawatanabata.html
「もうあまり大したものは入っていないだろうと思っていた」800年続く京都・冷泉家の当主が、藤原定家直筆の書物発見の経緯を語った冷泉為人文春オンラインhttps://bunshun.jp/articles/-/71237
顕注密勘文化遺産オンライン文化庁https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/583763
公益財団法人 冷泉家時雨亭文庫https://reizeike.jp/

書籍

籍名著者/翻訳者など出版社シリーズ名初版発行日
江戸からおもちゃがやって来た千葉惣次晶文社2004年3月5日
七夕と人形松本市立博物館(編)郷土出版社2005年7月23日
縁起菓子・祝い菓子亀井千歩子 宮野正喜淡交社2000年3月27日
花の民俗学桜井満講談社講談社学術文庫2008年1月10日

02.七夕馬

Webサイト

テーマ名サイト名著者URL
大芝の七夕馬製作技術文化遺産オンライン文化庁https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/587656
千葉県の七夕馬―草で作ったウマとウシ房総のむらhttps://www.chiba-muse.or.jp/MURA/kikaku/tanabatauma/top.htm
七夕と夏まつり日本玩具博物館https://japan-toy-museum.org/archives/exhibition/plan/七夕と夏まつり
農と祈り―田の馬、神の馬「食と農」の博物館https://www.nodai.ac.jp/application/files/3014/8557/9130/67.pdf
七夕の願い~真菰の馬と七夕の伝承~広報あげお上尾市https://www.city.ageo.lg.jp/uploaded/attachment/42923.pdf
藁馬行事の民俗学的考察北澤志織天理大学https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/4375/KOJ002102.pdf

書籍

籍名著者/翻訳者など出版社シリーズ名初版発行日
房総の郷土玩具石井車偶庵 相場野歩土筆社1976年7月20日
郷土玩具展望 中巻有坂與太郎山雅房1941年4月20日
日本郷土玩具 東の部武井武雄地平社書房1930年1月20日
江戸年中行事図聚三谷一馬中央公論社中公文庫1998年1月18日

03.上総袖凧

Webサイト

テーマ名サイト名著者URL
上総とんび一宮町https://www.town.ichinomiya.chiba.jp/kankou/kankouannai/bunkazai/machisitei/kazusatonbi.html
民俗資料データベース武蔵野美術大学https://collections.musabi.ac.jp/search_folk/pickup.php?wpid=50
上総袖凧  姉崎姉崎を知る会姉崎郷土資料館https://fururen.net/siryoukan/tenji/meisan/kazusatako/kazusatako.htm
千葉県指定・伝統工芸師 金谷司仁市原ふるれんネットhttps://fururen.net/siryoukan/tenji/meisan/kanaya/kanaya.htm
江戸凧お江戸の凧屋さん凧工房ときhttps://www.edo-kite.shop/
江都二色国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1187053/1/24
2023年新春特別収蔵品展「日本凧めぐり-山鹿郷土凧コレクション-」群馬県立歴史博物館群馬県https://www.pref.gunma.jp/uploaded/life/27832_180983_misc.pdf
山口県最北端の見島に伝わる鬼ヨーズ(楊子)を現代に伝える多田氏の活動と意気込みSHOKUNINhttps://japan-traditional-crafts.com/play/yamaguchi-mishima_oniyozu/

書籍

書籍名著者/翻訳者など出版社シリーズ名初版発行日
凧大百科比毛一郎美術出版社1997年12月15日
日本の凧俵有作/薗部澄菊華社1970年1月20日
凧絵の技法新坂和男美術出版社新技法シリーズ1987年1月15日

04.鶴枝ヒメハルゼミ発生地とヒメハルゼミ

Webサイト

テーマ名サイト名著者URL
麻綿原高原大多喜町観光協会https://kankouotaki.com/mamembara.html
麻綿原のヒメハルゼミ残したい音風景100選環境省https://www.env.go.jp/content/900400154.pdf
千葉県いすみ市、行川法泉寺のスダジイです!!ビーズうさぎのハナちゃんです!!https://blog.goo.ne.jp/hanako1033/e/8544dd804897a113adfb283e9566e804
ダイトウヒメハルゼミは徳之島からの地質時代移入カワオソ分子生命地質研究所http://kawaosombgi.livedoor.blog/archives/17021855.html
日本及び臺灣?の?並に新種の記載に就き札幌博物学会会報松村松年https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/62380/1/Vol.6No.3_002.pdf

書籍

書籍名著者/翻訳者など出版社シリーズ名初版発行日
改訂版 日本産セミ科図鑑林正美 税所康正誠文堂新光社1995年4月16日
台灣賞蟬圖鑑陳振詳大樹文化事業(台湾)2004年10月30日
沖縄のセミ 全19種林正美/佐々木健志他新星出版2006年7月19日
蟬類博物館-昆虫黄金期を築いた天才・加藤正世博士の世界矢後勝也監修練馬区立石神井公園ふるさと文化館2015年10月1日
せみの研究加藤正世岩崎書店少年の観察と実験文庫461952年9月10日

05.八積湿原の記憶

Webサイト

テーマ名サイト名著者日付URL
茂原・八積湿原Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/茂原・八積湿原

書籍

籍名著者/翻訳者など出版社シリーズ名初版発行日
日本のトンボ尾園暁 川島逸郎 二橋亮文一総合出版2012年7月10日

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「チコリーストーリー」参考資料https://tanabata-farm.com/reference-room/rf-story/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=rf-storyWed, 12 Jul 2023 07:46:01 +0000https://tanabata-farm.com/?p=5407

目次 01.チコリーコレクション 02.チコリーという植物 03.ラディッキオ ロッソについて 04.歴史文化の中のチコリー 01.チコリーコレクション Webサイト テーマ名 サイト名 著者 日付 URL 書籍 書籍名 ...

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01.チコリーコレクション

Webサイト

テーマ名サイト名著者日付URL

書籍

書籍名著者/翻訳者出版社シリーズ名初版発行日

02.チコリーという植物

Webサイト

テーマ名サイト名著者日付URL
日本食品成分分析表 2020年版(八訂)「チコリ」・「トレビス」文部科学省2021/12/28https://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/detail/__icsFiles/afieldfile/2016/11/30/1365343_1-0206r8_1.pdf
生物の名前と分類横川浩治https://www.kanpira.com/iriomote_museum/scientific_name.htm
爽健美茶爽健美茶日本コカ・コーラhttps://www.sokenbicha.jp/
育種の歴史は、太古から。伊藤智司横浜植木2021年12月23日https://www.yokohamaueki.co.jp/community/precicdnt-blog/267

書籍

書籍名著者/翻訳者出版社シリーズ名初版発行日
生物と無生物のあいだ福岡伸一講談社講談社現代新書2007年5月20日
生物を分けると世界が分かる岡西政典講談社講談社ブルーバックス2022年7月22日
世界はデザインでできている秋山具義筑摩書房ちくまプリマ―新書2019年11月10日
分類の発想中尾佐助朝日新聞社朝日選書1990年9月20日
トンボと自然観上田哲行編京都大学学術出版会2004年11月5日

03.ラディッキオ ロッソについて

Webサイト

テーマ名サイト名著者日付URL
レッドチコリー結球葉のアントシアニン生成と糖含量に及ぼす環境要因の影響https://www.jstage.jst.go.jp/article/ecb1963/35/2/35_2_91/_pdf/-char/ja
植物色素アントシアニンについて 研究情報株式会社シクロケムバイオhttp://www.cyclochem.com/cyclochembio/watch/list_anthocyanin.html

書籍

書籍名著者/翻訳者出版社シリーズ名初版発行日
光合成とはなにか園池公毅講談社講談社ブルーバックス2008年9月20日

04.歴史文化の中のチコリー

Webサイト

テーマ名サイト名著者日付URL

書籍

書籍名著者/翻訳者出版社シリーズ名初版発行日

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弓渡神社https://tanabata-farm.com/rural-landscape/shirine-yumiwatashi/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=shirine-yumiwatashiThu, 15 Jun 2023 10:16:46 +0000https://tanabata-farm.com/?p=1528

千葉県茂原市郊外の常緑広葉樹に包まれた小さな神社は、地元では過去からの文化の集積の場でした。未来永劫に姿が続いていきますように。 目次 01. 神社の姿 02. 弓渡神社の祭神 03. 奉納された絵馬や句額 01. 神社 ...

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千葉県茂原市郊外の常緑広葉樹に包まれた小さな神社は、地元では過去からの文化の集積の場でした。
未来永劫に姿が続いていきますように。

更新記録

2025年8月5日    「隣の白子町には罔象女神をお祀りする神社がいくつかあります」を追記しました。

2025年5月12日    「弓渡という地名」を追記しました。

2024年3月8日    木造罔象女神坐像について、国の重要文化財指定がすでに公示されていることを紹介しました。

2023年6月15日    「弓渡神社」を公開しました。

各コーナーの内容について

ご紹介している各コーナーの記述内容は、誤りの訂正、表現の修正、追加の記述などを必要に応じて行っています。
なお、大きな修正変更の場合はその内容を明記させて頂きます。

01. 神社の姿

参道に向かう、正面の石造りの鳥居は明治22(1889)年の建立です。

扁額には「天忍穂耳尊」(アメノオシホノミミノミコト)と刻まれています。

普通に考えれば、弓渡神社に祀られている祭神は、この天忍穂耳尊と思うのですが、違う可能性もあります。
祭神については、後ほどご紹介します。

参道は、シイ、カシなどの常緑樹に囲まれています。
やはり、少し薄暗く感じます。

拝殿の正面をやや遠くから見ています。

2020年のお正月の撮影。拝殿の正面を開放してもらっています。
画像の左上には、独特の注連飾りと正月の拝殿の中の様子が少しだけ見ることができます。

スダジイの大木 3本あります。秋には無数のドングリを放出します。 右の画像は周囲の道路から撮影しました。
左側の画像のスダジイの地上から約1メートルの幹回りを測ってみたところ、5メートル強の太さでした。

スダジイは、近辺の神社仏閣の社叢では珍しい樹木ではありませんが、ここまでの巨木になるまでには、相当の期間を要しているかと思います。
それは、放置状態で叶えられるものではなく、必ず、人々の助力が必要でした。

本殿の姿

本殿を裏から見ています。
本殿の右側面です。
拝殿(右側)から本殿へのつなぎ階段です。
本殿裏から向かって左の彫刻です。
左右の彫刻は、「鯉の滝登り」です。
欄間に獅子の彫刻が施されています。

拝殿からだけでは、社殿全体の立派な造りを知ることはできません。細かい造作が施され、豪華な印象です。

社殿の様式がこの周辺の独特のものなのか、今は分かりませんが、合間に調べたいと思います。

参道の奉納品

手水と左右の狛犬です。

すべて「明治十八年 当村 氏子中」と刻まれています。当村は、当時の弓渡村で、明治18年は西暦1885年です。
弓渡村は、1889(明治22)年の町村制施行に際に周辺の村と合併し、豊岡村となります。

狛犬は阿(あ)形と吽(うん)形の左右が対象ではない石像が多いようですが、こちらの狛犬の表情は口の開け方など、同じように見えます。
左側の子狗持ちと右側の鞠持ちは、狛犬のモチーフによく見ることができるものです。鞠の紋様や子狗の表情などに、細かいところまで表現されています。

実は、狛犬像の歴史などについては、かなり複雑多様なところもありますので、今ここでは、実際に鎮座している像のことだけを、ご紹介します。

狛犬の台座に「曽我野村 石工 高橋七之助」と刻まれています。

曽我野村は現在の千葉市中央区蘇我町付近にあった村で、江戸時代には、曽我野浦の名で、物資の海上輸送拠点として、九十九里沿岸と関係が深かったとされています。


また、弓渡村の例と同じく、1889(明治22)年に、周辺の村との合併により、「蘇我野村」に代わっています。

一方、弓渡村とは距離が近いわけではありません。
製作を依頼して、弓渡村の氏子の方々自ら引き取り運んできたのか 、石工さんを村に招いて製作してもらったのか、どちらかだったのでしょう。

弓渡という地名について

「弓渡」は、源頼朝に関する伝説から引き継がれた地名で、隣接する萱場、南吉田、粟生野などが主に自然環境に因むところから名付けられた地名とは、歴史的な成立の上では異なるところがあります。

1180(治承4)年の石橋山(神奈川県小田原市)の戦いで平家方に敗れた源頼朝は、神奈川県真鶴港付近から脱出し、海路で安房国に逃れます。
源氏としての勢力回復を目指し、房総半島を北上する経路の中で、頼朝は現在の茂原市弓渡付近で援軍の千葉常胤(つねたね)の迎えを受け、信頼の印として弓を渡したとされるのが伝説の内容です。
また、源頼朝に関わる地名、旧跡は房総半島の東側では、いすみ市の旧岬町付近から茂原市、白子町に至る地域に点在しています。

史実は、頼朝一行は房総半島西側を通り北上し、東側の頼朝に因む伝説などが伝えられたのは、全ていわゆる英雄礼賛(らいさん)からの作り話によるものとされています。

弓渡という地名がいつから使われ始めたのかは、詳しく調べてはいませんが、現在に至るまで地名として「弓渡」が存続しているということは、元々は地域の方々の地名に対する深い愛着があってこそだと思います。

(2025年5月12日追記)

02. 弓渡神社の祭神

祭神は女神様?
茂原市に移り住んだ当初、弓渡神社の祭神は「罔象女神(ミハノメノカミ)」との記述がある記事を見ました。
しかし、今はそのサイトは削除され、神社本庁のサイト「八百万の神」の弓渡神社のページには、祭神の記述がありません。
以前、地元の農家さんから「お祀りされているのは女神様だってさ」という、お話しも伺っていますので、罔象女神(ミヅハノメノカミ)を祭神として、ご紹介します。

罔象女神(ミヅハノメノカミ)について
罔象女神は、伊邪那美命(イザナミノミコト)から生まれました。
古事記では「弥都波能売神」(ミツハノメノカミ)、日本書紀では「罔象女神」(ミツハノメノカミ)とそれぞれ表されています。
また、別称として、「弥都波能女神」、「罔象女大神」、「水波能売命」、「水波能女神」なども使われます。

記紀の神話上の流れでは、伊邪那美命(イザナミノミコト)が、火の神「加具土命(かぐつちのみこと)」を生む際の苦しみの中で、間接的に誕生することになる女神で、後に、加具土命(かぐつちのみこと)を水の力で鎮めることを担うというストーリーに通じることになります。
神格としては、水の神、井戸の神、川の神、農耕神、紙漉きの神などとされています。


こちらの画像は、罔象女神を主祭神としている丹生川上神社(にゅうかわかみじんじゃ 奈良県吉野郡東吉野村)所有の「木造罔象女神坐像」で、鎌倉時代の13世紀半ばの制作とされています。


2022(令和4)年11月18日、文化庁の文化審議会で、丹生川上神社所有の他の19体の木造神像と一括して、国の重要文化財への指定が答申され、2023(令和5)年6月27日付けで、正式に重要文化財への登録が官報で告示されました。

弓渡神社の鳥居の扁額の「天忍穂耳尊(アメノオシホノミミノミコト)」は、農業の神様ですので、一緒に祀られている可能性もあるかと思います。

祭神が罔象女神と記された資料に出会いました

最近になり、資料を閲覧できる機会が増えました。
本納公民館でお借りすることができた、写真で見るもばら風土記「豊岡地区のロマンと伝説」において、弓渡神社の祭神が罔象女神と記されています。
但し、その元となる資料などは示されていません。
一方で別の説として、天忍穂耳尊と誉田別尊(ホンダワケノミコト:応神天皇/八幡大菩薩)をお祀りしているとも記されています。

(2024年5月12日追記  2025年5月13日補記)

改めて調べを続ける必要があります

2024年10月に茂原市立図書館から「豊岡村誌」(1961年刊)をお借りしました。
そちらには、祭神として天忍穂耳尊と誉田別尊と記されていました。

また、弓渡神社と呼ばれるようになったのは1885(明治18)年からで、古くは聖真子大権現(しょうしんしだいごんげん)と称されていました。(聖真子=「しょうしんじ」とする資料も見られます)
この「聖真子」という神社名からは、日吉大社(滋賀県大津市)を所縁(ゆかり)とする神社とも考えられます。
複雑なところもありますので、内容を整理し、改めてご紹介させて頂きます。

Webで閲覧できる古い資料も増えていますので、周辺の市町村史からも手掛かりを見つけられればと思っています。

(2024年12月8日追記)

隣の白子町には罔象女神をお祀りする神社がいくつかあります

「白子町史」(1965(昭和40)年刊)によれば、白子町には罔象女神を祭神とする水神社(すいじんじゃ)が、いくつか祀られていることが記されています。
弓渡神社と何かしらの関係があるのかは分かりませんが、もう少し調べてみたいと思います。

(2025年8月5日追記)

03. 奉納された絵馬や句額

2014年1月に、茂原市に移住して初めての正月を迎えました。
初詣に訪れた際、開けられていた拝殿の天井に、架けられている大きな絵馬に出会い、とても驚きました。
正月3が日は、見学できます。

富士登山図  明治45(1912)年奉納


描かれた6名の旅姿と奉納された方々の芳名数が一致するので、純粋な富士登山記念かと思われます。

旧弓渡村に富士講が存在したかどうかは、確認できませんが、絵馬にまで仕上げ、奉納しておられますので、講の組織があったのではないでしょうか。

茂原市内に伝わっている富士山関係の絵馬は、芝崎神社(上太田、2額 共に登山記念)、橘神社(長尾、富士風景)、八坂神社(上永吉、登山記念)、平野神社(上茂原、登山記念)の各神社に奉納されています。

源頼政の鵺(ぬえ)退治図 明治15(1882)年9月奉納

平家物語からの題材で、近衛天皇の時代、京の御所に現れた、頭がサル、胴体はタヌキ、手足はトラ、尾がヘビという怪物「鵺」を源頼政が退治したというストーリーです。
かなり、リアルな構成です。
このテーマで表現、構成したのはどのような祈りを込めているのでしょうか。

絵馬のテーマとしては、全国に広く見られます。

茂原市内の同じテーマの絵馬は、八幡神社(高田)、天照大神社(真名:まんな)にも伝わっています。

天岩戸の図 安政6(1859)年9月奉納

日本神話の天照大神の天岩戸ストーリーをモチーフに描かれていますが、庶民と思える人物を配していることなどが、とてもユニークな印象です。

こちらは、茂原市真名(まんな)天照大神社に奉納された天岩戸図絵馬で、茂原市指定文化財に登録されています。
神話の内容そのままで、描かれているのは物語の場面に登場する神様たちです。

各地に見られる天岩戸絵馬は、大半がこちらの方になります。(茂原市絵馬調査報告書「絵馬」2005より借用)

なお、天照大神社には同じテーマの絵馬が別にもう1額奉納されています。

たまたま、「故郷姉崎年中行事」を見ていたところ、「風祭」の山車の装飾に天岩戸伝説をモチーフにしているところを見つけました。
この祭礼は、五穀豊穣を祈念して行われるそうで、とすると、天岩戸絵馬は、豊年万作、五穀豊穣を願って奉納された可能性も考えられるかと思います。

神社参拝記念の図

残念ながら、奉納された方々の名前などは判読不能になっています。
テーマの神社は、赤で描かれた建築の構造部と背後の山々のイメージから、日光東照宮ではないかと思いました。

源頼光 大江山鬼退治の図 嘉永4(1851)年奉納 明治36(1903)年修繕

初めの奉納の際の画人は、千町の「三宅與一」と明示されています。
奉納掲示されている他の大絵馬に比べ、色調の鮮やかさが良く残されている1額です。

当初の奉納年代は、ペリーの黒船来航の2年前となりますが、どのような願いを込めて納めたのでしょうか?

源頼光一行の大江山酒吞童子退治の物語は、平安時代初期の題材を元に、江戸初期の「御伽草子」により庶民へ広がりました。絵馬のテーマとしても全国的に確認できるものの一つです。

茂原市内には、同じテーマの絵馬が、藻原寺(道表)と三ヶ谷神社(三ヶ谷)に伝わっています。

仁田四郎忠常の猪狩り図 文政2(1819)年8月奉納

新田四郎忠常は、伊豆国出身で、源頼朝に仕え、平氏討伐・奥州征伐などで数々の戦功を上げた武将です。
この絵馬のモチーフは、頼朝が1193(建久4)年に開いた「富士の巻狩り」での出来事です。

矢を受けた手負いのイノシシが、頼朝に向かって突撃してきたのを、忠常がイノシシの背に飛び乗り、刀を突きさし倒し、頼朝を救ったというものです。

江戸時代からその豪勇ぶりを「猪武者」と呼ばれ、歌舞伎の演目にも取り上げられ、親しまれました。
茂原市内には、この新田四郎忠常も描かれている、「源頼朝富士の巻狩り図」の絵馬が、天照大神社(真名)と長谷神社(長谷)に伝えられています。

京都八坂神社の絵馬堂に奉納された新田四郎忠常の猪狩り図絵馬について

2020(令和2)年に国の重要文化財に指定された八坂神社の絵馬堂に同じモチーフのとても貴重な絵馬が伝わっています。

1702(元禄15)年9月に奉納されたこの絵馬には「海北友賢斎筆」との墨書名があります。

海北友賢(かいほうゆうけん・生没年不詳)は、海北友雪(1598-1677)の弟子の海北派の絵師ですが、京都・真如堂に伝わる「大涅槃図」他数点以外、美術史上にその経歴があまり知られていない中で、海北友賢の制作が明らかなこの絵馬は非常に貴重なものとされています。

※岩井宏実「絵馬」(1974年、法政大学出版部刊)による 故岩井宏実氏は民俗学者で国立歴史民俗博物館教授、帝塚山大学学長を歴任されました。

「扁額軌範」について

ご紹介している八坂神社の絵馬についての画像は、「扁額軌範」(へんがくきはん)前編からの抽出です。
扁額軌範は1819(文政2)年出版の京都の清水寺や北野天満宮、八坂神社などが所蔵していた主な大絵馬を収録した書籍で、現在では失われてしまった絵馬もあるそうです。
「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧することができます。

出征男子の拝み図 奉納年代:不明 9月だけ判読できます

軍服姿の若者が祈っている姿です。
私には無事の帰還を願っているように思えました。

ささやかな中に強い願いを感じます。
ご紹介している絵馬の中では最も小型の絵馬です。

豊臣秀吉高松城和議の図 明治25(1892)年奉納 

絵馬のモチーフは、豊臣秀吉率いる織田軍が中国地方を支配する毛利軍を攻める中での大きな出来事です。
毛利方の清水宗治が城主の備中高松城(岡山県岡山市)を攻めあぐねる中、秀吉は軍師・黒田官兵衛の進言により、城を「水攻め」にし、落城させたというものです。

講和の果てに、備中高松城主・清水宗治は、城兵・部下の命を引き換えに切腹します。
秀吉は宗治の自刃を武将の鑑(かがみ)と称えたとされています。

議論している武将二人の甲冑に描かれた家紋の内、左側の武将には「五三桐」らしき家紋が描かれています。
この家紋は豊臣秀吉が使った家紋の一つであることは確認できます。
また、右側は、「並び矢」という家紋ですが、関わった可能性がある武将に行き着きませんでした。

考えられるのは、こちらの絵馬は、構図としては「備中高松城和議の図」が使われていますが、
込められた願いは、弓渡の住民の方々として、大きな独自のテーマが有ったのだと思います。
この絵馬の奉納には多くの方々の芳名が確認できます。
当時の賛同は大きく幅広いものだったのでしょう。

背後の陣幕に大きく描かれた「笹竜胆(ささりんどう)」の家紋は、清和源氏に所縁のある家紋で、
弓渡を象徴する頼朝伝説を絵馬に込めているかと思います。
(但し、頼朝が実際にこの家紋を使ったという記録は確認されていません。)

奉納された1892(明治25)年は、日清・日露戦争よりは前になります。
戦争に関わることとは考えにくいと思います。

この文章の初めあたりにお伝えした通り、弓渡村は、1989(明治22)年に千沢村・萱場村・弓渡村・御蔵芝村・清水村・南吉田村・粟生野村と合併し、長柄郡豊岡村が誕生します。(その後1897(明治30)年に長生郡豊岡村となります。)

またまた、研究者でもない者の勝手な推測ですが、新しく生まれた村の共存共栄、発展を祈って奉納されたのではないでしょうか?

「句額」だろうと思います。弓渡神社には2額(?)奉納されています。
最初の「奉納」と最後の「天保十五年八月」と書かれているだけ読めますが、あとは詠み人の名前の右上の地名が少しわかる程度です。

茂原市教育委員会から「茂原市内の句額」という資料が出版されているのを最近知りましたので、一読して、もう少し具体的にお知らせします。

江戸時代中頃から、茂原でも俳諧が流行していました。まだ、詳しく調べていないのですが、一宮町や長生村、白子町なども含め、各地で盛んに句会が開かれていたようです。

隣の白子町には、高浜虚子の弟子で俳句山脈(俳句の世界)で大きな足跡を残した、前田普羅(まえだふら 1884(明治17)年-1954(昭和29)年)の墓所(玄徳寺)があります。
前田普羅は、横浜で生まれましたが、父親の実家は白子町関にあり、幾度となく白子に滞在し、俳句の指導を行いました。その流れは今も引き継がれ、「しらこ俳句会」が続いています。

また、墓所の玄徳寺は江戸時代後半から明治期にかけて、たびたび、句会の会場となり、賑わいました。
1894(明治27)年夏、本納、白子、長生の各村から俳人が集まり、芭蕉翁の二百年着祭を開きました。寺には「俳聖二百年忌念碑」が建てられています。
(小冊子「白子の俳句ものがたり」白子町教育委員会刊による)

茂原市の絵馬について

茂原市絵馬調査報告書「絵馬」(2005年 茂原市教育委員会刊)によれば、市内の神社に伝わっている大型の絵馬は、152額確認されています。
奉納された年代は、特定できなかった半数を除き、明治時代が最も多く、次いで、江戸時代となっています。
題材は、武者絵図が全体の三分の一以上を占め、その奉納年代が明治期のものが多く、日清・日露戦争の勝戦祈願が奉納の動機と考えられます。

茂原長生と大網白里市は、絵馬の奉納が盛んな地域で、大網白里市の縣神社(あがたじんじゃ)の「弁慶図」と「牛若丸図」は、1579(天正7)年の奉納で、千葉県内最古の絵馬とされています。
Webサイト「大網白里市デジタル博物館」の「”絵馬の宝庫”大網白里」では、大網白里市南今泉の稲生神社に奉納された約90点の絵馬の内48点を高精度の画像で見ることできます。

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