七夕馬

このコーナーでは、七夕馬・七夕牛に照準を合わせることとし、年中行事としての七夕については、別にご紹介します。

各コーナーの内容について

ご紹介している各コーナーの記述内容は、誤りの訂正、表現の修正、追加の記述などを適宜行います。
大きな修正変更の場合を除き、履歴を明記することは、控えさせていただきます。

稲わら、チガヤ、マコモなどの植物で作られたウマを総称して、「わら馬」と呼んでいます。
わら馬が登場する年中行事は、日本各地で確認され、各地方地域で、対象となる行事や馬の役割などに多くの種類が見られます。また、馬の形や大きさ、装飾、使われる植物の種類などには、それぞれの地域に個性があり、多様化しています。

七夕の行事に使われるわら馬が「七夕馬」ですが、馬に込められた伝承には、二つの形式があるとされています。

その1,七夕の伝承で、彦星と織姫が一年に一度の出会いの際の、天の川を渡る乗り物となるとされるものです。
地域によっては、馬を2体飾る所があり、おす馬とめす馬に区別する所もあります。

その2,五節句としての七夕とお盆(盂蘭盆)が習合した形で、七夕馬はご先祖様があの世から帰って来る際の乗り物となり、帰りはたくさんのお供え物で太らせたナスの馬(牛)でお送りするとされるものです。

江戸時代の精霊棚

江戸の庶民家庭のお盆の精霊棚です。
毎年7月13日(旧暦)に家の内をきれいに掃除して、新しい棚を作りました。

四隅に葉の付いた青竹を立て、周りは青杉の葉の籬(まがき)で囲い、棚の中に真菰を敷きます。
棚には、霊牌(れいはい)やお供え物の他、ハスの葉の上に、馬や牛に見立てた、ウリ、ナスと真菰馬(?)が見えます。

「江戸年中行事図聚」(三谷一馬著 1998年 中公文庫)より

前後の「太らせたナスの馬(牛)」についてと、絵図の内容とに違いはありますが、地域差と同じような程度なのかなとも思います。ただ、現在の七夕行事にある、「キュウリの馬とナスの牛」との関連は、改めて調べて、ご紹介します。


日本各地の七夕馬は、七夕行事か盆行事かのどちらかに属するかはっきりしているものと曖昧なもののほか、無関係の玩具として伝わっている場合もあるようで、ある意味、おおらかな日本文化の形だと思います。

02.千葉県の七夕馬

関東地方では、千葉県以外に隣接する東京、埼玉、茨城やや離れますが、群馬でも記録されていますが、全域に渡って確認されている都県は、千葉県だけです。
千葉県内の七夕馬は、地域により、形を始め、装飾や使われ方(習俗)に様々な形態が見られます。
ここでは、1997(平成9)年から約4年にわたり、房総の村(印旛郡栄町)で開かれた、企画展「草で作ったウマとウシ」の要約を中心に、千葉県の七夕馬のについてご紹介します。

「草で作ったウマとウシ」では、千葉県内の七夕馬を形や行事などから、7つの型に分類しています。
エリアの中でも、場所により、呼び方や形、2体の組み合わせ方、馬1体など、とても多様です。

1,東葛型

形態:尾が長く、後足が細くなっています。
行事:高いところに、向かい合わせで飾ります。

組み合わせ:雄馬+雌馬、雄馬一体、馬+牛
呼び方:七夕馬、マコモ馬、来迎馬(天馬)、オンマ

2,印旛沼・手賀沼型

形態:尾が長く、後足が細いものが多い一方、画像のように、全体が細いものも、見られます。
行事:川や池などの水に流します。
組み合わせ:雄馬一体、馬+牛
呼び方:七夕馬、マコモ馬、盆の馬、ウマナガシの馬、ホトケ様迎えの馬など

3,香取型

形態:足が太く、オカマ苗(稲の苗)を付けます。
行事:子供が草刈りに引いて行きます。
組み合わせ:馬+牛、雄馬一体
呼び方:七夕馬、マコモ馬、馬と牛、七夕の馬

4,海匝型(かいそうがた)

形態:芯が有るかは確認できませんが、マコモを束ねるのではなく、巻き付けて、形を作ります。
行事:子供が草刈りに引いて行きます。
組み合わせ:馬+牛、雄馬一体
呼び方:七夕馬、馬と牛

5,九十九里型

形態:たてがみを組み上げた形にしています。
行事:子供が草刈りに引いて行きます。
組み合わせ:馬+牛が大半です。
呼び方:カヤカヤ馬、七夕馬

6,安房型

形態:素材にチガヤを使っています。
行事:縁側や窓辺に飾り、先祖を迎えに行かせる役目をします。
組み合わせ:馬+牛
呼び方:七夕馬、盆の馬

7,内房型

形態:口は上下に分かれ、後頭部は左右に分かれています。
行事:子供が草刈りに引いて行きます。
組み合わせ:雄馬+雌馬、馬+牛、雄馬一体
呼び方:七夕馬、マコモ馬

故郷姉崎町年中行事」の「ハイ馬」行事です。

七月七日の朝、子供たちがマコモで作ったウマを台車に乗せ、田畑で刈り取った草をウマに取り付け、家に引いて帰り、家では強飯を炊いて祝いました。

このウマを「ハイ馬」と呼びました。やはり、昭和30年代半ばまで行われていました。

03.茂原市周辺の七夕馬

茂原市大芝の七夕馬
産業としての七夕馬作り

茂原市大芝は、別にご紹介している「八積湿原」の中心地です。
大芝の七夕馬作りは、昭和30年頃は、地区だけで30軒ほどの農家で行われ、副業として現金収入を得る、一大産業でした。



もちろん、八積湿原というマコモを得ることに不自由しない環境を控え、販路は4と9の付く日に開かれる茂原の六斎市(7月は七夕市と呼ばれました)という安定的に販売できる場所もありました。
販売は、仲買人もいて、自転車で大多喜、一宮、大原方面まで売り歩きました。

「房総の郷土玩具」(石井車偶庵著 1976(昭和51)年刊)の「大芝の真菰馬」の項目によると、この本が出版される時点で、「作り手がほとんど見あたらない」となっており、まるで、八積湿原の消滅と時を合わせるように、無くなってしまう寸前まで行ったようです。
詳しい経緯は分かりませんが、地元の方々の尽力もあり、「大芝の七夕馬」として記録にまとめられ、製作技術の伝承は守られることになります。

2022(平成4)年3月23日付けで「大芝の七夕馬製作技術」として、茂原市大芝の七夕馬が国の無形民俗文化財に指定されました。(「文化遺産オンライン」でご覧頂けます。)

石井車偶庵氏について

石井車偶庵氏(本名:石井丑之助 1911(明治44)年~1993(平成5)年)は、東京都台東区下谷に生まれ、戦前から戦後を通じて、日本全国の郷土玩具の収集と研究に尽力されました。
1985(昭和60)年に、横浜市港北区綱島から、茂原市中善寺に移住し、「車偶庵民俗文化資料館」を開館されました。
郷土玩具の収集家というよりも、その中のテーマを探求する研究者のように思えます。

そのテーマとしては、「車人形」、「船玉様」、「小絵馬」など、多くの題材となります。
その研究のごく一部は、著書「車偶庵の郷土玩具」(国書刊行会 1994年)に掲載されていますが、他の大部分の発表は、ごく限られた数量での私家版によるもののようで、特殊なテーマであることもあり、広く一般に知られる状況にはありません。
氏の亡き後、車偶庵民俗文化資料館は閉じられ、収集品の大部分は、茂原市郷土資料館に寄贈されたと聞いています。
二万点にも及んだとされる、郷土玩具を一度にすべて展示することは不可能ですから、館は折々にテーマを設け、企画展の形で披露されているようです。それだけでも、相当な努力、労力かと思います。
もし、同時に研究資料も同様に寄贈がなされたのであれば、少しずつでも、閲覧が可能になることを願います。

大芝の七夕馬の特徴と習俗
大芝の七夕馬は、別名「カヤカヤ馬」と呼ばれています。
このカヤカヤ馬という呼び方は、九十九里沿岸の一部地域でだけ使われている呼び方で、他の地域では使われていません。
この「カヤカヤ」の由来は不明です。

使われている材料 以外に多くの材料が使われています。
①真菰 ②真竹 ③蒲(がま) ④菅(すげ) ⑤青桐の枝 ⑥棕櫚(しゅろ)の葉 ⑦麦わら ⑧染料(5色) 
これだけの材料を集めるだけでも、かなりの労力です。

形などの特徴 大芝の七夕馬には、大きな特徴が見られます。
それは、真竹で作られた、「5色の房飾り」です。
真竹を繊維状したものを染料で染めたもので、ものすごく手間がかかっています。
大芝独特の秘密の技術だったようですが、なぜ、わざわざこの飾りを付ける必要があったのでしょうか。

大芝の七夕馬の祀り方

大芝の農家さんの例です。
8月7日の朝早く近所で草を刈り、それを玄関前に敷き、その上に七夕馬と牛を置き、一緒に採れたての野菜とバラマンジュウを供えます。
バラマンジュウは、小麦粉に重曹を混ぜて練った生地で餡を包み、サルトリイバラの葉の上に乗せて蒸して作る饅頭です。

この行事は、以前の七夕馬についての慣習だった、子供たちが早朝から、リヤカーや一輪車に小さな木の台車に乗せた七夕馬を並べて、それと一緒に近所に草刈りに行き、刈り取った草を七夕馬に乗せて家に戻り、供え物と一緒にそれらを飾ったという流れが、形式を変えて今に表されているように思えます。
そして、それは農耕のために働く牛や馬への感謝、慰労と、草刈りなど農作業の厳しさ、大切さを伝える行事でした。



8月8日以降、庭のお稲荷さんの祠の屋根に上げられます。

以前は、炊事場の天井の柱にくくり付けたり、玄関の庇の上や屋根に上げたりされました。

七夕馬・七夕牛を祀ることに込められた人々の願いは、他の地域と同じように、天災や事故に遭わないようにという守護神としての意味合いがありました。
特に、炊事場では火災除け、庇や屋根では盗難除けとして、祀られました。
(上、2点の画像は「写真で見るもばら風土記 大芝の七夕馬」から借用しました)

5色の房飾りについてー出羽三山信仰の色梵天の5色?

大芝地区は『多菜畑農園の周辺風景―「馬頭観音」』でご紹介した「上総七里法華」のエリアから外れ、真言宗が地域の主な宗派です。

また、江戸時代初期頃から房総半島全域に出羽三山信仰が広がり、大芝地区でも、三山講ができ、定期的に月山、湯殿山、羽黒山の出羽三山に参拝していました。

七夕馬が大芝に伝わった経緯を示すような資料は残されていませんが、出羽三山信仰との関係を伝える伝承があり、その一つは、信仰の普及活動で村に訪れる山伏や行者が持ち込んだというもの、そして、もう一つが三山講で出羽三山参拝に出かけた際、七夕馬を持ち帰ったというものです。

ここからはまたまた研究者でもない、カヤカヤファーマーの勝手な推測です。
七夕馬・七夕牛の本体と5色の房飾りとは、別々の伝承あるいは創作ではないかと思うのです。
本体は地域、製作者により違いはありますが、山武長生地域に広く伝わり、大芝地区オリジナルとは言えません。
オリジナルの部分は、5色の房飾りです。これは、同じ九十九里型の圏内の作例を見ると、上総七里法華エリアだった東金市、大網白里市などの七夕馬には、詳細な資料を確認してはいませんが、見ることができませんでした。

そして、極めて単純な発想で、出羽三山信仰の行事に供えられる色梵天の5色なのではないかと考えました。
詳しく検証はしていません。
論文ではありませんが、ご紹介している以上、まだ入手できたいない詳しい資料を読み、更新させて頂きます。
(色梵天の画像は、千葉市花見川区の南柏井出羽三山講で使われる色梵天です。)

04.千葉県以外の七夕馬

全国に「七夕馬」は伝わっています。少しずつでも、紹介、更新させて頂きます。

七夕馬について、お盆の行事に含まれるものも合わせると、局地的ですが、全国に記録されているのが分かります。
調べていくと、意外にも奥深く、また、その伝統、伝承を受け継いでいるところもまだまだあるようです。

そして、千葉県以外の関東の東京都内や埼玉県では、地域のコミュニティ組織が主体となってイベント性を絡めた伝統維持が試みられていることを、いくつか確認できました。思いがけず、長いテーマとなるようです。