01.馬頭観音について
馬頭観音は、仏教の「六観音」のひとりです。
仏教の「輪廻転生」の基本思想では、生き物は死んだ後も、何度も生まれ変わるとされています。
死後に生まれ変わる世界は六つあり、それを「六道」と言います。
六道は、天道(いわゆる天国)、人道(人間のこの世)、修羅道(争いが絶えない世)、畜生道(人間以外の世)、餓鬼道(飢えと苦しみの世)、地獄道(この世で罪を犯した者が落ちる世)とされています。
そして、それぞれの「道」にそれぞれ別の「観音菩薩」がいて、人々や生き物を救ってくれるということになっています。
六道の中の畜生道にいるのが、「馬頭観音菩薩」です。
他の観音様が女性的で柔和な表情をしているのに対し、馬頭観音のその像は、憤怒相(ふんぬそう:怒りの表情)をしています。この憤怒相で、苦悩や災難、煩悩などを打ち砕いてくれるのです。
このコーナーでは、近世以降に日本独特の民間信仰として広まった「馬頭観音」信仰を対象に絞って、ご紹介します。
ご紹介している各コーナーの記述内容は、誤りの訂正、表現の修正、追加の記述などを必要に応じて行っています。
なお、大きな修正変更の場合はその内容を明記させて頂きます。
02.「馬頭観世音」の石碑
農園付近で確認できた馬頭観世音石碑の位置をテロップしてみました。
探して見つけたわけでもなく、粟生野農園の石碑以外は、通りがかりの道路沿いに単独で建てられています。
改めて、画像を撮影し、ご紹介しようと思います。
3カ所の石碑は、小さなお堂の中にあり、大切にされていた印象です。
粟生野農園の石碑を正面から。
もう少しきれいにしてあげてから、撮ってあげなくてはいけませんね。
以前、道が通っていたのでしょうか?
いや、明らかに農家さんの敷地の中だと思います。
実は、まだ、はっきりと読めないのですが、
建立年代は「大正十五年」のようです。
南吉田にも馬頭観世音の石碑が建てられています
子安神社の前にある、「馬頭観世音」の石碑です。
建立年月などは不明です。比較的新しいものの可能性もあります。
画像では、非常に読み難く、申し訳ありません。
千沢の馬頭観世音石碑群です
粟生野農園に向かう途中、千沢地内の道路近くに小さな林を伴って、5基の馬頭観世音石碑が佇んでいます。
最近(2024年6月)、この存在を知りました。
真新しい右端の石碑があることが、近年でもその信仰対象としての馬頭観音の存在を物語っています。
左から2番目の石碑は、嘉永元(1848)年の奉納です。
(2024年6月8日追記)
馬頭観音が建てられた意味
ここからは、一般的な呼び方の「馬頭観音」で、ご紹介を進めます。
農家にとって、馬や牛は家族の一員で、農地の耕作から収穫物の運搬まで、あらゆる機会に欠かせない存在でした。
仏教の伝来とともに、日本に伝わった馬頭観音信仰は、鎌倉時代頃から次第に一般庶民の信仰としても、その対象となって行きました。そして、庚申などと同じように日本独特の信仰のかたちができて行きます。
村のはずれや道の片隅、寺社の境内などに、馬頭観音の石像や文字碑を建てることが盛んになったのは、江戸時代になってからのことです。
例え、小さな石塔ひとつでも、お金はかかる訳ですから、それを建てようとする信仰心は、ある意味大きいものと考えられます。
馬頭観音は養蚕の守り神
馬頭観音を建てる庶民の動機は、普通に考えれば、牛馬の供養と安全への祈りですが、もう一つ大きいのが、養蚕の守護神としての役割です。
養蚕は農家にとって、大きな収入源でした。
(長野県北安曇郡白馬村の馬頭観音石仏群です。養蚕が盛んだった長野県には、多くの姿が確認されています。「塩の道を歩く」より)
実際に粟生野農園の農家さんでは、昭和の中頃まで、養蚕も営まれていたそうです。
しかし、養蚕を終えて月日がながれると、桑畑は竹藪となり、何も偲ぶものはありません。
強いて言えば、「馬頭観世音」の小さな文字碑だけです。
上のマップにお示しした石碑がすべて養蚕の名残りかは確認できていません。
少なくとも、縁あって身近におられるこちらの馬頭観音に、なぜか感謝の気持ちを抱きます。
養蚕をしていた建物です。
茅葺屋根ですが、その上からトタンを葺いています。
長野県など雪の多い地域では、山の神様が春になると里に降りてきて、稲などの農作物、蚕を守ると信じられ、山の神の乗り物の馬も同じ役目を果たすとされ、それが馬頭観音の信仰と結びついたとされています。
また、東北地方、岩手県遠野地方の民話「オシラ神」では、このような内容で伝わっています。(ちょっと長いです)
昔々、ある所の農家のむすめが、飼われていた馬と結婚し、怒った父親が馬を大きな桑の木に吊るし上げて、殺してしまった。
そして、馬の皮を剝いでいたところにむすめが来て、剝ぎ上げられた皮がむすめに巻き付いて、天に昇って行った。
悲しみに暮れる両親の夢枕にむすめが立ち、春三月十六日の朝、臼の中に馬の頭の形をした虫がたくさんいるから、桑の葉で育てれば、その虫から絹糸がとれるので、それで暮らすようにと伝えた。
それが蚕の始まりで、馬とむすめはオシラ様になった。(「聴耳草紙」(ききみみそうし 佐々木喜善 1931年)
このような話の内容を、「オシラ祭文」として、イタコにより東日本を中心に伝えられ、いつしか、馬頭観音と養蚕が結びつきました。
この結びつきは、七夕とお盆の結びつきと同じように、日本の民間信仰独特のもので、その経緯を具体的に示す資料などはありません。粟生野農園の「馬頭観世音」の建立が大正年間でも、石碑に込めた祈り、想いは、馬頭観音と養蚕の結びつきが、時を越えて続いていたのだと思います。
03.上総七里法華のエリア
石仏がほとんど確認できない空白エリアー「上総七里法華」
茂原市の大半を含む、大網白里市などの九十九里沿岸の一部地域には、ほとんど石仏が見られません。
ご紹介してきた、「馬頭観世音」の文字碑も、明治時代以降に建てられた可能性もあります。
酒井定隆による日蓮宗への改宗への徹底
1488(長享2)年、土気(とけ)・東金城主 酒井定隆は、自分の領内七里四方の領民を日蓮宗に改宗させました。
これは、かなり強制的、徹底的で、反抗した僧侶は殺害されたと伝えられています。
日蓮宗では、法華経至上主義が徹底され、法華経と関係のない神を祀ることを「雑乱勧請」(ぞうらんかんじょう)と呼び、邪神として排除したり、他宗を激しく攻撃する布教を行いました。
その結果、根付いた信仰は現在まで生き続けており、庚申塔や馬頭観音の石像を見ることはありません。
酒井定隆(1435(永享7)年~1522(大永2)年)は、応仁の乱の下剋上の時代に生きた戦国武将です。
出生ははっきりしていませんが、駿河国に生まれ、京都の将軍足利喜尚、鎌倉の足利成氏を経て、安房の里見氏に仕えます。
ある年、酒井定隆は、江戸方面から船での帰途、暴風により、船の安全が危ぶまれる中で、動ずることなく法華経を唱える僧に出会い、その経の力でか、無事に浜野の港に入ることができました。
その僧は、日泰上人といい、1432(永享4)年、京都白河の生まれ、新興派の日蓮宗を広めるため、下総国浜野村にあった廃寺を本行寺として再興し、布教活動を行っていました。
定隆は、日泰上人との出会いに感激し、本行寺での将来への希望を語り合う中で、、自らが一国一城の主となった際は、自分の領内はすべて日蓮宗に改宗させる約束をしました。
その後、定隆は里見氏に仕え、出世して一方の大将となりましたが、与えられた領地は中野(現在の千葉市若葉区中野町付近)という、里見氏の勢力範囲の末端の台地でした。
しかし、次第に東金、大網方面を手中に収め、1488(長享2)年、土気城を築き、宿願を果たします。
すぐに、日泰上人を招くと同時に、領地の日蓮宗への改宗の約束を実行に移しました。
上総七里法華のエリアから一歩外れた、市原市や山武市などには、房総半島独特の「馬乗り馬頭観音」が数多く残されています。
市原市椎津新田の馬乗り馬頭観音です。
1776(安永5)年の建立で、慈悲相という優しい顔をしています。
先にご紹介した、長野県の像が観音様の頭部に馬を配しているところの真逆です。
webサイト「市原ふる連ネット」より借用
馬乗り馬頭観音は、房総半島でも市原市、木更津市などの西上総と上総七里法華を挟んだ、匝瑳市、旭市などの東下総にそれぞれ集中的な造立が見られ、像の形態などから、それぞれが別々の経緯で広まったとされています。
千葉県内に馬乗り馬頭観音は242基が知られ、県外では長野県に10基、群馬県、福島県などに14基の合計24基が確認されています。また、利根川を挟んだ茨城県側には、馬乗り馬頭観音は全くありません。
独特の文化となった房総の馬乗り馬頭観音は、未解明なことばかりです。
ごく最近、初めてと隣り町の長生郡白子町にある、「白子町歴史民俗資料室」をやっと訪ねました。
その際、白子町北高根に馬頭観世音の石像があることが分かりました。
建立年代は不明ですが、上総七里法華エリア内での存在は、とても珍しいものとなります。
個人宅にあるそうですので、町を通じて、見学をお願いし、もう少し詳しくお伝えできたらと思います。
(資料室に掲示されたパネルより作成)
04.Photoshopを使い石碑文字の判読を試みました
馬頭観世音の石碑と屋敷神の祠を挟んで、一基の文字碑があります。
それが何の石碑であるかは、農家さんにも伝わっていません。
動機は極めて不純です。何て書かれているのか知りたいだけです。読めたらラッキー程度です。
もっと摩滅が進んでいたら、そんな気にもならなかったと思います。
Webサイトを作っているうちに、画像編集ソフト「Photoshop」を少しですが、使えるようになり、根拠は全くありませんが、もしかするとと思ってしまいました。
もちろん、そもそもソフトの機能からして、石碑文字の解読など論外だという事も分かっています。
むしろ、拓本を取ってしまった方が読めるのでしょうか?
しかし、やり方も分かりませんし・・・・・・
実は2023年の春に一度手を付けてポシャケました
このときは、チコリーの画像処理で、ほとんど色調補正ばかり行っていました。画像の見栄えを良くするため、明るくしたり、コントラストを付けたりするものです。
「トーンカーブ」などを根拠もなく見た目だけで処理し、(今でもそうですが)、いじくっているうちに、石碑の判読を思いつきました。
何か、Photoshopで何とかできるかもと思えたのです。やはり、結果は、無駄な時間を使っただけでした。
当時の状態です。今も保存していますが、かえって読み難かったかと思います。
改めて、Photoshopで石碑の文字を拡大してみると、3行の文字列が確認でき、左右の列の文字は解読できるにしても、中央の本文は、文字として抽出することは難しいと考えることになりました。
エリアの日蓮宗寺院に見られる、文字石碑に書かれている書体に似ているように思えてきました。
(2024年4月24日と5月20日に追加で記述しました)
Photoshopのトーンカーブについての解説記事を読んでいて、急に思い立ち、下の図のようなことを試してみました。
結果として、判読は完全にはできませんでしたが、推定することまではできました。
その一方で、確かにこのような方法が、全く役に立たなかったわけではありませんが、周辺の日蓮宗と題目碑(だいもくひ)の存在についてもう少し知識があれば、現物と画像だけでももっと早く推測はできたかと思います。
実際のパソコン上の画像では、ヒントになる部分が、不完全ながら推測できるようになってきました。
右の行は、「元祖日蓮大菩薩」つまり日蓮の名前を刻したものかと思われます。
この標記は、少なくとも日蓮宗本門流では普通に使われているようで、茂原市鷲巣(わしのす)にある古刹・長國山鷲山寺(ちょうこくざんじゅせんじ)の紹介文で見ることができました。
また、「日蓮大菩薩」は日蓮が亡くなった後、1385(永徳5)年に後光厳天皇から贈られた諡号(しごう=おくりな)です。
そして、左の行ですが、「開山日什大正師」と特定できました。
ボダイジュのご紹介で触れている、近くの円立寺(えんりゅうじ)にも「二位僧都日什大正師」と刻まれた題目碑があるようなので、間違いはないかと思われます。
また、円立寺は日蓮宗の宗派では顕本(けんぽん)法華宗に属しているので、その開祖である「日什」の名が刻まれているのは、やはり、円立寺に関係が深い題目碑かと思われます。
中央の行ですが、終わりの2文字が「萬霊」かと思います。その上の2文字は、近隣の題目碑の資料と画像の印象から、「法界」と考えられ、「法界萬霊」と刻まれているかと思われます。
そして、3、4番目の文字は、「妙法」かと思われますので、他の画像を確認、照合してみると、「南無妙法蓮華経」と刻まれているかと推測してみました。
地域の日蓮宗寺院の近くに残る題目碑と同じ系統の石碑と考えられます。
日什(にちじゅう:1314(正和3)年-1392(明徳3)年)は、陸奥国会津(現:福島県会津若松市)の武士の家に生まれました。
19才で比叡山延暦寺に入り、38才で3千人の天台宗学僧の学頭となった後、58才で故郷会津に戻り、会津城主蘆名(あしな)氏の依頼で、出羽三山の羽黒山東光寺の住職となりました。
そこでも天台宗の多くの学徒を育てますが、66才の時、日蓮が著わした書物を読み、その教えに感化され、日蓮宗へ改宗します。
その後、京都を中心に日蓮宗の拡大を積極的に行い、武家・公家・町衆などにその浸透を広め、1381(永徳元)年には日什の博識と高徳に尊敬の念を抱いた関白・二条良基の計らいで「洛中公法の綸旨(りんし)」と「二位僧都」の官位を与えられます。
1389(康応元)年、日什に帰依(きえ)した町衆の天王寺屋通妙の寄進により、現在の烏丸五条付近に「妙塔山妙満寺」を開き、自身の日蓮宗流派を「日什門流」とした基盤を築きました。
この日什門流が、「日蓮宗妙満寺派」を経て1898(明治31)年に「顕本法華宗」と妙満寺から改称の発表があり、現在、妙満寺は京都市左京区岩倉に移り、顕本法華宗の総本山として知られています。
むしろ石碑の左側面に刻まれているはずの作られた年代などが注目です
今の段階では、ここまでです。円立寺他、近辺に伝わる日蓮宗関連の題目碑(塔)はほとんどが江戸時代に建てられています。何とか、チコリー栽培の間を使って、判読できるようにしたいと思います。