ご紹介している各コーナーの記述内容は、誤りの訂正、表現の修正、追加の記述などを必要に応じて行っています。
なお、大きな修正変更の場合はその内容を明記させて頂きます。
01. 神社の姿
参道に向かう、正面の石造りの鳥居は明治22(1889)年の建立です。
扁額には「天忍穂耳尊」(アメノオシホノミミノミコト)と刻まれています。
普通に考えれば、弓渡神社に祀られている神様は、この天忍穂耳尊と思うのですが、どうもそうではないようです。
祭神については、後ほどご紹介します。
参道は、シイ、カシなどの常緑樹に囲まれています。
やはり、少し薄暗く感じます。
拝殿の正面をやや遠くから見ています。
2020年のお正月の撮影。拝殿の正面を開放してもらっています。
画像の左上には、独特の注連飾りと正月の拝殿の中の様子が少しだけ見ることができます。
スダジイの大木 3本あります。秋には無数のドングリを放出します。 右の画像は周囲の道路から撮影しました。
左側の画像のスダジイの地上から約1メートルの幹回りを測ってみたところ、5メートル強の太さでした。
スダジイは、近辺の神社仏閣の社叢では珍しい樹木ではありませんが、ここまでの巨木になるまでには、相当の期間を要しているかと思います。
それは、放置状態で叶えられるものではなく、必ず、人々の助力が必要でした。
拝殿からだけでは、社殿全体の立派な造りを知ることはできません。細かい造作が施され、豪華な印象です。
社殿の様式がこの周辺の独特のものなのか、今は分かりませんが、合間に調べたいと思います。
参道の奉納品
手水と左右の狛犬です。
すべて「明治十八年 当村 氏子中」と刻まれています。当村は、当時の弓渡村で、明治18年は西暦1885年です。
弓渡村は、1889(明治22)年の町村制施行に際に周辺の村と合併し、豊岡村となります。
狛犬は阿(あ)形と吽(うん)形の左右が対象ではない石像が多いようですが、こちらの狛犬の表情は口の開け方など、同じように見えます。
左側の子狗持ちと右側の鞠持ちは、狛犬のモチーフによく見ることができるものです。鞠の紋様や子狗の表情などに、細かいところまで表現されています。
実は、狛犬像の歴史などについては、かなり複雑多様なところもありますので、今ここでは、実際に鎮座している像のことだけを、ご紹介します。
狛犬の台座に「曽我野村 石工 高橋七之助」と刻まれています。
曽我野村は現在の千葉市中央区蘇我町付近にあった村で、江戸時代には、曽我野浦の名で、物資の海上輸送拠点として、九十九里沿岸と関係が深かったとされています。
また、弓渡村の例と同じく、1889(明治22)年に、周辺の村との合併により、「蘇我野村」に代わっています。
一方、弓渡村とは距離が近いわけではありません。
製作を依頼して、弓渡村の氏子の方々自ら引き取り運んできたのか 、石工さんを村に招いて製作してもらったのか、どちらかだったのでしょう。
02. 弓渡神社の祭神
祭神は女神様?
ネット検索しかできていないのですが、茂原市に移り住んだ当初、弓渡神社の祭神は「罔象女神(ミヅハノメノカミ)」との記述がある記事を見ました。しかし、今はそのサイトは削除され、神社本庁のサイト「八百万の神」の弓渡神社のページには、祭神の記述がありません。
以前、地元の農家さんから「お祀りされているのは女神様だってさ」という、お話しも伺っていますので、罔象女神(ミヅハノメノカミ)を祭神として、ご紹介します。
罔象女神(ミヅハノメノカミ)について
罔象女神は、伊邪那美命(イザナミノミコト)から生まれました。
古事記では「弥都波能売神」(ミツハノメノカミ)、日本書紀では「罔象女神」(ミツハノメノカミ)とそれぞれ表されています。
また、別称として、「弥都波能女神」、「罔象女大神」、「水波能売命」、「水波能女神」なども使われます。
記紀の神話上の流れでは、伊邪那美命(イザナミノミコト)が、火の神「加具土命(かぐつちのみこと)」を生む際の苦しみの中で、間接的に誕生することになる女神で、後に、加具土命(かぐつちのみこと)を水の力で鎮めることを担うというストーリーに通じることになります。
神格としては、水の神、井戸の神、川の神、農耕神、紙漉きの神などとされています。
こちらの画像は、罔象女神を主祭神としている丹生川上神社(にゅうかわかみじんじゃ 奈良県吉野郡東吉野村)所有の「木造罔象女神坐像」で、鎌倉時代の13世紀半ばの制作とされています。
2022(令和4)年11月18日、文化庁の文化審議会で、丹生川上神社所有の他の19体の木造神像と一括して、国の重要文化財への指定が答申され、2023(令和5)年6月27日付けで、正式に重要文化財への登録が官報で告示されました。
弓渡神社の鳥居の扁額の「天忍穂耳尊(アメノオシホノミミノミコト)」は、農業の神様ですので、一緒に祀られている可能性もあるかと思います。
(2024年5月12日追記)
最近になり、資料を閲覧できる機会が増えました。本納公民館でお借りすることができた、写真で見るもばら風土記「豊岡地区のロマンと伝説」において、弓渡神社の祭神が罔象女神であることを明らかにされていました。
一方で別の説として、天忍穂耳尊と誉田別尊(ホンダワケノミコト:応神天皇/八幡大菩薩)をお祀りしているとの説もあるようです。
今後もいろいろな資料に巡り合えることを期待しています。
03. 奉納された絵馬や句額
2014年1月に、茂原市に移住して初めての正月を迎えました。
初詣に訪れた際、開けられていた拝殿の天井に、架けられている大きな絵馬に出会い、とても驚きました。
正月3が日は、見学できます。
富士登山図 明治45(1912)年奉納
描かれた6名の旅姿と奉納された方々の芳名数が一致するので、純粋な富士登山記念かと思われます。
旧弓渡村に富士講が存在したかどうかは、確認できませんが、絵馬にまで仕上げ、奉納しておられますので、講の組織があったのではないでしょうか。
茂原市内に伝わっている富士山関係の絵馬は、芝崎神社(上太田、2額 共に登山記念)、橘神社(長尾、富士風景)、八坂神社(上永吉、登山記念)、平野神社(上茂原、登山記念)の各神社に奉納されています。
源頼政の鵺(ぬえ)退治図 明治15(1882)年9月奉納
平家物語からの題材で、近衛天皇の時代、京の御所に現れた、頭がサル、胴体はタヌキ、手足はトラ、尾がヘビという怪物「鵺」を源頼政が退治したというストーリーです。
絵馬のテーマとしては、全国に広く見られます。
茂原市内の同じテーマの絵馬は、八幡神社(高田)、天照大神社(真名:まんな)にも伝わっています。
天岩戸の図 安政6(1859)年9月奉納
日本神話の天照大神の天岩戸ストーリーをモチーフに描かれていますが、庶民と思える人物を配していることなどが、とてもユニークな印象です。
左の画像は、茂原市真名(まんな)天照大神社に奉納された天岩戸図絵馬で、茂原市指定文化財に登録されています。
神話の内容そのままで、描かれているのは物語の場面に登場する神様たちです。
各地に見られる天岩戸絵馬は、大半がこちらの方になります。(茂原市絵馬調査報告書「絵馬」2005より借用)
なお、天照大神社には同じテーマの絵馬が別にもう1額奉納されています。
たまたま、「故郷姉崎年中行事」を見ていたところ、「風祭」の山車の装飾に天岩戸伝説をモチーフにしているところを見つけました。
この祭礼は、五穀豊穣を祈念して行われるそうで、とすると、天岩戸絵馬は、豊年万作、五穀豊穣を願って奉納された可能性も考えられるかと思います。
神社参拝記念の図
残念ながら、奉納された方々の名前などは判読不能になっています。
テーマの神社は、赤で描かれた建築の構造部と背後の山々のイメージから、日光東照宮ではないかと思いました。
源頼光 大江山鬼退治の図 嘉永4(1851)年奉納 明治36(1903)年修繕
初めの奉納の際の画人は、千町の「三宅與一」と明示されています。
奉納掲示されている他の大絵馬に比べ、色調の鮮やかさが良く残されている1額です。
当初の奉納年代は、ペリーの黒船来航の2年前となりますが、どのような願いを込めて納めたのでしょうか?
源頼光一行の大江山酒吞童子退治の物語は、平安時代初期の題材を元に、江戸初期の「御伽草子」により庶民へ広がりました。絵馬のテーマとしても全国的に確認できるものの一つです。
茂原市内には、同じテーマの絵馬が、藻原寺(道表)と三ヶ谷神社(三ヶ谷)に伝わっています。
仁田四郎忠常の猪狩り図 文政2(1819)年8月奉納
新田四郎忠常は、伊豆国出身で、源頼朝に仕え、平氏討伐・奥州征伐などで数々の戦功を上げた武将です。
この絵馬のモチーフは、頼朝が1193(建久4)年に開いた「富士の巻狩り」での出来事です。
矢を受けた手負いのイノシシが、頼朝に向かって突撃してきたのを、忠常がイノシシの背に飛び乗り、刀を突きさし倒し、頼朝を救ったというものです。
江戸時代からその豪勇ぶりを「猪武者」と呼ばれ、歌舞伎の演目にも取り上げられ、親しまれました。
茂原市内には、この新田四郎忠常も描かれている、「源頼朝富士の巻狩り図」の絵馬が、天照大神社(真名)と長谷神社(長谷)に伝えられています。
2020(令和2)年に国の重要文化財に指定された八坂神社の絵馬堂に同じモチーフのとても貴重な絵馬が伝わっています。
1702(元禄15)年9月に奉納されたこの絵馬には「海北友賢斎筆」との墨書名があります。
海北友賢(かいほうゆうけん・生没年不詳)は、海北友雪(1598-1677)の弟子の海北派の絵師ですが、京都・真如堂に伝わる「大涅槃図」他数点以外、美術史上にその経歴があまり知られていない中で、海北友賢の制作が明らかなこの絵馬は非常に貴重なものとされています。
※岩井宏実「絵馬」(1974年、法政大学出版部刊)による 故岩井宏実氏は民俗学者で国立歴史民俗博物館教授、帝塚山大学学長を歴任されました。
ご紹介している八坂神社の絵馬についての画像は、「扁額軌範」(へんがくきはん)前編からの抽出です。
扁額軌範は1819(文政2)年出版の京都の清水寺や北野天満宮、八坂神社などが所蔵していた主な大絵馬を収録した書籍で、現在では失われてしまった絵馬もあるそうです。
「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧することができます。
出征男子の拝み図 奉納年代:不明 9月だけ判読できます
軍服姿の若者が祈っている姿です。
私には無事の帰還を願っているように思えました。
ささやかな中に強い願いを感じます。
ご紹介している絵馬の中では最も小型の絵馬です。
豊臣秀吉高松城和議の図 明治25(1892)年奉納
絵馬のモチーフは、豊臣秀吉率いる織田軍が中国地方を支配する毛利軍を攻める中での大きな出来事です。
毛利方の清水宗治が城主の備中高松城(岡山県岡山市)を攻めあぐねる中、秀吉は軍師・黒田官兵衛の進言により、城を「水攻め」にし、結果的に落城させたというものです。
備中高松城主・清水宗治は、城兵・部下の命を引き換えに切腹します。
この絵馬の奉納には多くの芳名が記されています。何を祈念して奉納されたのでしょうか。
議論している武将二人と奥の笹りんどうの家紋からはテーマ自体の特定は難しいようです。
奉納された1892(明治25)年は、日清・日露戦争よりは前になります。外国との戦争に関わることとは考えにくいと思います。
この文章の初めあたりにお伝えした通り、弓渡村は、1989(明治22)年に千沢村・萱場村・弓渡村・御蔵芝村・清水村・南吉田村・粟生野村と合併し、長柄郡豊岡村が誕生します。(その後1897(明治30)年に長生郡豊岡村となります。)
またまた、研究者でもない者の勝手な推測ですが、新しく生まれた村の共存共栄、発展を祈って奉納されたのではないでしょうか?
「句額」だろうと思います。弓渡神社には2額(?)奉納されています。
最初の「奉納」と最後の「天保十五年八月」と書かれているだけ読めますが、あとは詠み人の名前の右上の地名が少しわかる程度です。
茂原市教育委員会から「茂原市内の句額」という資料が出版されているのを最近知りましたので、一読して、もう少し具体的にお知らせします。
江戸時代中頃から、茂原でも俳諧が流行していました。まだ、詳しく調べていないのですが、一宮町や長生村、白子町なども含め、各地で盛んに句会が開かれていたようです。
隣の白子町には、高浜虚子の弟子で俳句山脈(俳句の世界)で大きな足跡を残した、前田普羅(まえだふら 1884(明治17)年-1954(昭和29)年)の墓所(玄徳寺)があります。
前田普羅は、横浜で生まれましたが、父親の実家は白子町関にあり、幾度となく白子に滞在し、俳句の指導を行いました。その流れは今も引き継がれ、「しらこ俳句会」が続いています。
また、墓所の玄徳寺は江戸時代後半から明治期にかけて、たびたび、句会の会場となり、賑わいました。
1894(明治27)年夏、本納、白子、長生の各村から俳人が集まり、芭蕉翁の二百年着祭を開きました。寺には「俳聖二百年忌念碑」が建てられています。
(小冊子「白子の俳句ものがたり」白子町教育委員会刊による)
茂原市絵馬調査報告書「絵馬」(2005年 茂原市教育委員会刊)によれば、市内の神社に伝わっている大型の絵馬は、152額確認されています。
奉納された年代は、特定できなかった半数を除き、明治時代が最も多く、次いで、江戸時代となっています。
題材は、武者絵図が全体の三分の一以上を占め、その奉納年代が明治期のものが多く、日清・日露戦争の勝戦祈願が奉納の動機と考えられます。
茂原長生と大網白里市は、絵馬の奉納が盛んな地域で、大網白里市の縣神社(あがたじんじゃ)の「弁慶図」と「牛若丸図」は、1579(天正7)年の奉納で、千葉県内最古の絵馬とされています。
Webサイト「大網白里市デジタル博物館」の「”絵馬の宝庫”大網白里」では、大網白里市南今泉の稲生神社に奉納された約90点の絵馬の内48点を高精度の画像で見ることできます。