
千葉県茂原市郊外の小さな空間から、少し不思議な旅へとお誘いします。
2025年11月14日 「東漸寺蹟」を公開しました。
ご紹介している各コーナーの記述内容は、誤りの訂正、表現の修正、追加の記述などを必要に応じて行っています。
なお、大きな修正変更の場合はその内容を明記させて頂きます。


一面をチガヤが覆っています。
奥まった場所に建てられた「弓渡山東漸寺之蹟」と刻まれた
石碑が、ここに寺院があったことを示しています。

東漸寺という寺名が明示されています。
この時代、どのようなお寺の姿だったのでしょうか。
地図に載せられているということは、明治初期の廃仏毀釈を乗り越えたのでしょうか。
※「東漸寺蹟」という表現は、こちらの碑文を基に、Webサイトが便宜的に付けさせて頂きました。
01. 弓渡山東漸寺について
やはり真言宗から日蓮宗に改宗させられたようです
弓渡山東漸寺の創立は不明です。当初は、真言宗寺院でした。
当初からかは明らかではありませんが、現在の茂原市七渡(ななわたり)に在った龍堂寺(りゅうどうじ)の末寺でした。
1488(長享2)年の土気城主酒井定隆の命による強制的な改宗令により、日蓮宗(法華宗京都妙満寺派=現在は顕本法華宗と呼称)の寺院となったとされています。
近隣の東福山本大寺(茂原市萱場)や宝常山円立寺(茂原市粟生野)の改宗も同じ時代に行われています。
本山の龍堂寺での、真言宗僧侶たちへの改宗強要と寺院施設の破壊は徹底的だったと記録されていることから、末寺の東漸寺もその災禍は厳しいものだったのかも知れません。
改宗の際の真言宗寺院での宝物、什器などは徹底的に廃棄され、穴に埋められました。
その地点が、「経塚」として伝えられました。
龍堂寺の跡地に新たに創られた日蓮宗の龍鑑寺(りゅうかんじ)の末寺として昭和時代中期まで存続しました。
最後は、堂宇の老朽化のため、1951(昭和26)年に解体されました。
弓渡山東漸寺についての記録などは、どこかに残されている可能性もあるかと思われますが、確認できた資料は、「豊岡村誌」(豊岡村誌編纂委員会 編 1963年刊)の短い記述だけでした。
弓渡山東漸寺の名残り

お寺が在ったことを示す痕跡は、いくつかの石碑しか残されていません。
しかも、小さな空き地の奥まった場所にまとまられているので、気付かれることもあまりないのかと思われます。
石碑についてのご紹介は、もう少し判読ができた時点で、加筆させて頂きます。
摩滅(まめつ)がひどいものはないのですが、コケなどで読み難くなっています。

1951(昭和26)年に堂宇が老朽し、解体することになった際、建立された「号渡山東漸寺之蹟」と刻まれた石碑です。
背面には、「号渡區一結 昭和廿六年春建之」と刻まれています。
「弓」を「号」としている理由は不明です。

「号渡山東漸寺之蹟」碑の右隣に、小さな祠(ほこら)が佇んでいます。
中に祀られた小さな像からも、鬼子母神の祀で間違いありません。
地元の方から伺ったお話しでは、この祠は今でも信仰が続いています。
まとまったテーマとなりますので、改めてご紹介します。

02. 東漸寺と東漸
東漸寺は日本各地に存在します
Wikipediaによると、東漸寺は北海道から九州までほぼ全国に寺名が見られます。
また、あらゆる宗派が挙げられていて、特に日蓮宗に偏っているわけではありません。
中でも、関東地方には数の多い少ないはありますが、すべての都県に合計24寺を確認できます。千葉県については、関東7都県では最も多い9寺があり、県内全域に分散しています。
茂原市近郊の東漸寺としては、隣の長生郡一宮町一宮(曹洞宗)、いすみ市国府台(日蓮宗)、市原市月出(天台宗)、東金市三ヶ尻(顕本法華宗)が挙げられます。
東漸という言葉
今回、「東漸寺蹟」というテーマをご紹介する機会を得て、初めてこの言葉を知りました。
国語辞典を引くと、「勢力などが次第に東方へ進み移ること。『文明の―』」と示されています。
当たった資料には、「仏法東漸」または「仏教東漸」という組み合わせで出会いました。

こちらは、日本画壇に大きな足跡を残された平山郁夫氏(1930(昭和5)年~2009(平成21)年)が中央に進み出るきっかけとなったされる作品「仏教伝来」です。
1959(昭和34)年第44回院展に出展し、入選しました。
広島で被爆した平山氏は、10数年後から原爆後遺症による強度の貧血に悩まされるようになります。
そこからの死への不安から、心の救済と平和への祈りを絵の題材を求めていました。
その頃、小さな新聞記事から「東京オリンピックの聖火をシルクロード経由で運ぶ」というプランがあることを知ります。それが、仏教伝来の道を描く草案となりました。
構図は唐代の高僧・玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)がインドから仏典を持ち帰る途中のシルクロードのオアシスを通る様子を描いています。以降、仏教の日本への伝来をテーマにした作品を数多く発表されました。
平山郁夫氏ご本人が、「東漸」という言葉をお使いになったかどうかは、確認できません。
紀元前5世紀にインドに釈迦が誕生して仏教が興ってから、経典の誕生を経て、約千年をかけて、6世紀半ばに日本に伝わり、「仏教東漸」は完了します。
仏教の日本への伝来をテーマとしてシリーズのように作品を描き続けられました。今も多くの各地の美術館などでの企画展では、「仏教東漸」という表現でのテーマ紹介がされています。
画像は、図録「平山郁夫展:仏教伝来への道」(中国新聞社 1981刊)国立国会図書館デジタルコレクションより
作品は、佐久市立近代美術館(長野県佐久市)所蔵
どのような過程を経て、「東漸寺」と名付けられたのでしょう。
「東漸」に込められた思いは、とても慈悲深くて、また、壮大な願いを込めているように感じました。
※「仏教東漸」をキーワードに、「クスノキノート」でご紹介している「吉野寺」(よしののてら)とつながるのですが、かなり難しい内容のため、もう少し勉強してからご紹介させて頂きます。

03. 東漸寺の経塚

こちらの画像は、1959(昭和34)年頃に撮影された「弓渡の経塚」です。これは、東漸寺に由来します。
現在の豊岡小学校の敷地内にあったようです。
後年取り壊されて、今は存在しないとのことですが、やはり痕跡も残されていないのでしょうか。
(写真集明治大正昭和茂原ふるさとの想い出
海保四郎編 国書刊行会 1984年刊による)
なお、「豊岡村誌」にも別の画像が掲載されています。
上総七里法華と経塚
すでに失われたとはいえ、弓渡の経塚は画像で確認ができる貴重なものです。
現在の茂原市内では、実際に遺跡としてでも伝わっている経塚は確認できません。
一方で、小字名として伝わり、昔、経塚というものが存在したことを連想できることもあります。

「茂原市の地名と伝説」は、星野正氏の自費出版による書籍ですが、現在の茂原市全域の小字名を調査、記録された貴重な資料です。
地区によっては、相当数の小字名を確認でき、中にはかなりユニークな名称も見られます。
経塚または御経塚という地名(ここでは小字名)は、詳しく調べることは難しいのですが、上総七里法華のエリアには、所々に残されているようです。
なお、小字名は登記簿上では、弓渡であれば、
「茂原市弓渡字経塚」
と記載されます。
もちろん、住居表示などで小字名まで使われることはありませんが、地元の域内では、日常生活の会話の中で使われることがあります。
今に伝わる経塚

こちらは隣りの大網白里市永田に今も残る旧光昌寺の経塚です。
日蓮宗への強制的改宗の令が出た際、寺院の境内に仏具などを埋めたとされています。
周囲は田畑で、古くは寺院が在った事など、想像できない現在の環境です。
大網白里市の文化財に指定されています。
なお、金珠山光昌寺は同じ永田地区内の別の場所に再建されました。
ここまでご紹介した「経塚」は、上総七里法華という”強制的改宗”により生まれた遺構と言えるかと思います。
従って、その域内に限られて残された独特の「経塚」となります。
広く、一般的に歴史の中で、使われる「経塚」についてもこの機会にご紹介します。
史跡としての経塚とは、主に、仏教経典を書写し供養した後、陶器や金属などの容器に入れ、地中に埋めて塚状にしたモニュメントを指します。また、時代により、塚に対しての信仰行動の違いにより、形態には大きな変化が見られます。
経塚として造られ始めた年代は詳しくは不明ですが、12世紀(平安時代後期から鎌倉時代初期)に最も盛んに造営され、江戸時代にまで続きました。ここでは、深いご紹介は避け、代表的な古代から中世の経塚について、触れておきます。
平安時代中期頃から日本は「末法思想」が次第に広がり、仏の世が遠ざかり、世の中のあらゆる事物も滅んでゆくという考え方に包まれました。
そこで、当時の貴族層、僧侶、神官などの有識者層を中心に、仏教信仰の中で、経典をこの危機を乗り越えてもらい、自らも来世での幸福を祈るべく、経塚の造営が広く行われるようになります。
同時に埋められた物品は、経典だけでなく、魔除けのための鏡や刀、写経に使った筆や硯、そして埋経者に因む生活用品など多くの物が知られています。
今に伝わる主な経塚を簡単にご紹介します。
葛城二十八宿経塚(かつらぎにじゅうはっしゅくきょうづか)和歌山県和歌山市、
修験道の祖とされる役小角(えんのおづぬ:634?~701?)が、修行のために仏法の世界として見立てた葛城の峰々28カ所に法華経八巻二十八品(ほん)の経典を一品ずつ経筒にいれて埋納しました。
第一経塚は和歌山市沖の友ヶ島にあります。
日本最古の経塚とされています。末法思想からの経塚造営の広がりより、はるか以前の例です。
金峯山経塚(きんぷせんきょうづか)奈良県吉野郡吉野町 金峯山寺・金峯神社
藤原道長(966~1027)は、1007(寛弘4)年金峯山に参拝し、自筆の法華経など15巻を金銅製経筒に入れて、埋納しました。
また、道長のひ孫の藤原師通(ふじわらもろみち:1062~1099)も、1088(寛治2)年に自筆の法華経など12巻を埋納しました。他にも、白河法皇など多くの有力者が埋納する、規模の大きな経塚となりました。
埋納された経典や経筒などの遺物のいくつかは、国宝や重要文化財に指定されています。
末法思想からの造営流行のごく初期に当たる例となります。
朝熊山経塚群(あさまやまきょうづか 国指定史跡) 三重県伊勢市朝熊町経ヶ峰
経塚信仰の最盛期での大規模な遺構です。40基ほどの経塚が確認されています。
朝熊山の頂上付近に建てられた勝峰山金剛證寺(しょうほうざんこんごうしょうじ)は、欽明天皇(509~571)時代の創設とされる臨済宗南禅寺派の古刹で、神都伊勢の霊山として信仰を集めました。
経塚は金剛證寺東側の経ヶ峰の斜面にあり、1959(昭和34)年の伊勢湾台風による森林破壊が起きるまでは、スギやヒノキの大木に覆われていました。
明治年間に1173(承安3)年と刻まれた陶製経筒が発見され、経塚の存在が知られるようになります。
そして、伊勢湾台風によりなぎ倒された跡地の整理作業の中で、多くの埋経遺品が発見されました。
陶製経筒には在銘(埋経を実行した年号を刻む)されたものも多く出土し、1156(保元元)年から1186(1186)年の約30年間を中心に造営されています。全国的に経塚造営が最盛期を迎えた時期とほぼ一致します。
また、埋経を行った有識者は、神宮祀官(じんぐうしかん:内宮・外宮に仕える神職)や僧侶が中心で、神宮と仏教が密接に結びついていた証しとも理解できます。

出土品は、「朝熊山経ヶ峰経塚出土品」として、一括して国宝に指定されています。金剛證寺に併設されている「宝物館」に収蔵されています。
こちらは第三経塚出土の国宝「線刻阿弥陀三尊来迎鏡像」(せんこくあみださんぞんらいごうきょうぞう)の2点ある内の1点です。
中央に阿弥陀如来坐像、(画像では明瞭ではありませんが)やや下の両脇に勢至菩薩坐像と観世音菩薩坐像が刻まれています。
阿弥陀浄土への往生を願う来迎図で、平安末期の来迎図の構図としても貴重なものとされています。
20年以上前のことですが、宝物館を見学しました。
しかし、需要文化財の「木造雨宝童子」は明らかな記憶があるのですが、経塚に関する事物は全く記憶がありません。
残念です。(画像は「目で見る三重の百年」三重県編 1976年より)

04. 東漸寺蹟の今
今も続く習俗―鬼子母神祠への信仰
「犬が死ぬと鬼子母神の祠に集まってお参りします」とお世話になっている弓渡の農家さんの奥様から伺いました。
これは「犬供養」という風習です。
この風習は「子安講」(こやすこう)が、結ばれている地域に伝わっているものです。
講は農村での生活上の互いの助け合いや共同体の維持を目的に形成された地縁集団です。
子安講は、女人講(にょにんこう)のひとつで、山武長生エリアでは、定期的に構成員の自宅などで、「子安大明神」などの掛け軸を飾り、出産や産後の無事を一緒に祈る信仰の形でした。
その内容は講によって様々な形式があります。
後には、女性の会合による一時の娯楽という意味合いも強くなってゆきます。
弓渡の隣りの粟生野でも、子安講は続けられていますが、少子化も著しいことから、少人数での集まりだそうです。
子安講と犬供養
犬供養の風習は利根川下流域を中心に南関東から東北南部にかけて伝わっています。
千葉県側では、利根川に沿って西は柏市から東の香取市にかけてと南端が四街道市、佐倉市の逆三角形状のエリアと、富里市や山武市西部、富里市北部の空白地域を挟んで、九十九里沿岸の山武長生エリアに知られています。

子安講の始まりは、利根川下流域に伝わる石像塔の検証により、江戸時代初期にまで遡るとされています。
それは、出産や月経による血の穢れ(けがれ)のために地獄に落ちる女性を救う如意輪観音(にょいりんかんのん)への信仰が広まったことによります。
やがて女性同士が定例的に集まり、如意輪観音を祀り、念仏を唱和する十九夜講(じゅうくやこう)が構成されます。
時を経て、江戸時代中期以降からは、女人救済から安産と健やかな児の成長へと信仰の対象が緩やかに変化し、集落の親睦を深める役割りの意味も加わり、子安講へと移り行きます。
いつしか、犬について、安産の象徴とも、逆に犬の死は講の不幸にもつながる出来事と考えられ、子安講に犬を供養するという追善が生まれることになります。
こちらは、「文化遺産オンライン」の「延命寺の十九夜塔」(千葉県白井市)です。
女人講または、十九夜講を構成する人々による寄進により、1670(寛文10)年に建てられました。
この画像からは確認できませんが、隣りの印西市、八千代市などには、台座に「女人講中」や「十九夜講」と刻まれている十九夜塔が多く残されています。

そろそろ弓渡に戻らなければなりません。
でも、もう少し、寄り道させてください。
こちらの画像は、子安講の際に、床の間に飾られる掛け軸です。
「印西町史 民俗編」(印西町史編さん委員会 1996年)から借用しました。
山武長生での子安講に用いられる掛け軸は、「子安大神」と大きく文字書きされたものが主流のはずですが、画像が入手できず、こちらを使わせて頂きました。
また、茂原市などの長生郡市では、茂原市腰当(こしあて)の子安神社から、掛け軸を借りて来て、子安講に使い、講が無くなる際には、神社に返すとのことです。
(「子安講からみる千葉県山武市平野部の文化と地域コミュニティ」長谷川幸裕さん 筑波大学付属駒場高校による)
日蓮宗と鬼子母神信仰のつながり
古くから、日蓮宗と鬼子母神は、深い結びつきがありました。
古代インドにおいて、鬼子母神は、元は人間の子をさらって食べる鬼神でしたが、釈迦の説法を聞き、改心し帰依(きえ)することになります。
その時の釈迦への誓いが、
「我、法華経を受持するものを護り、その子孫をも守護せん」(「法華経」陀羅尼品だらにほん第二十六)
と、伝えられており、このことが、鬼子母神は日蓮宗の信者を護る守護神とされる原点となりました。
また、日蓮聖人自身も、十羅刹女(じゅうらせつにょ:鬼子母神と共に法華経を守る10人の鬼神)や鬼子母神たちが法華経を信じる者たちを護る、と書簡などで述べています。

こちらは、富山県高岡市の大法寺に伝わる長谷川等伯(信春)筆「鬼子母神・十羅刹女画像」(1564(永禄7)年)です。
国の需要文化財に指定されています。
長谷川等伯(1539(天文8)~1610(慶長15))は、安土桃山時代の代表的な画人です。
国宝「松林図屏風」など数多くの名作が現在に伝わっています。
33歳で京都に出るまでは、出生地の石川県七尾市を中心に能登から加賀、越中方面で法華経関係の仏画や肖像画を描きました。
この作品は、落款(らっかん)により、等伯の若い時の制作年代がはっきり確認できる作品の一つです。
鬼子母神が、最上部の右側に描かれ、相対してその配偶神とされる半支跏大将(はんしかたいしょう)を配し、従うように下に十羅刹女のそれぞれが描かれています。
本来、法華経の経文では、十羅刹女が主、鬼子母神が従とされていますが、日蓮宗の信仰が広まり時を経る中で、鬼子母神が主で十羅刹女は従う娘たちのようになり、やがて、鬼子母神一身への信仰へと移り行きます。
鬼子母神はこちらでは、美しく雅やかな女神様として描かれていますが、日蓮宗派での鬼子母神信仰は、やがて、恐ろしい鬼形の様相を呈した画像や彫像が多数を占めるようになります。

現在の日蓮宗の各宗派での、鬼子母神を祀る上での方式は様々なものがあるようです。
改めて、コンパクトにご紹介できるようにしたいと思います。
東漸寺の鬼子母神祠
やっと、弓渡に戻ってきました。

東漸寺の宗派である顕本法華宗では、「主尊は本堂の御本尊(題目)であり、鬼子母神はその守護を担う存在」とされています。
そのため、本尊として祀られるのは「大曼荼羅」であり、鬼子母神は本尊と共に祀られてはならず、寺院境内などにお堂や祠を建てて祀ることとされました。
極端には古い印象ではない祠ですが、鬼子母神信仰の経緯を考えれば、重い存在に思えてきました。
いつの頃から、ここに居られるのでしょうか?

題目「南無妙法蓮華経」と書かれた周囲に漢字・梵字で記された仏・菩薩、仏弟子、天台系の学僧たち、インド・中国・日本の諸神々の名号などを配置した大型の掛け軸で、日蓮聖人が仏の悟りの世界を文字で表現したものです。
大曼荼羅は顕本法華宗などの日蓮系諸宗派での本尊とされています。
こちらは、茂原に近い長生郡睦沢町の高藤山妙勝寺に伝わる、「日通上人曼荼羅」です。1695(永禄8)年に茂原の古刹鷲山寺(しゅせんじ)23世日通上人により、書かれました。
鬼子母神も必ず書かれていると思いますが、見つけられませんでした。
弓渡山東漸寺については、まだ、分からないことだらけなので、折に触れ、調べて行きます。

チコリーの多菜畑農園 