七夕ギャラリー

各コーナーの内容について

ご紹介している各コーナーの記述内容は、誤りの訂正、表現の修正、追加の記述などを必要に応じて行っています。
なお、大きな修正変更の場合はその内容を明記させて頂きます。

01.フロントページ画像のご紹介

根知の七夕飾り「お七夕」

1975年8月上旬のことです。
国鉄大糸線の根知駅から、頚城バスで新潟県糸魚川市の別所まで行き、そこから、徒歩で大久保という集落に入りました。
この周辺は地滑り地帯で、家屋はその対策もあって頑丈な立派な造りをしていました。

その当時、集落の住民は一戸だけという事でしたが、
画像ほどのバリエーションの豊かさはなく、素材も違っていたものの、
明らかに七夕飾りと見えるものが、道を横切り張られていました。

その不思議な新鮮さをよく記憶しています。七夕飾りに興味を持つことになった、きっかけのひとつです。

冷泉家の乞巧奠(きっこうてん)

冷泉家(れいぜいけ)は平安末期から鎌倉時代初期に活躍した藤原俊成、定家父子を遠い祖先とする「和歌の家」で、江戸時代までは和歌を家業として、宮廷に仕えました。

乞巧奠(きっこうでん)は、奈良時代に中国から機織りの技術と共に伝わったとされ、天の二星(牽牛星と織姫星)に機織りの上達を祈る儀礼です。

冷泉家(京都市上京区)の乞巧奠(きっこうてん)は、旧暦7月7日の夜に行われます。

まず、南庭に「星の座」という祭壇を設け、海・山のもの、秋の七草、五色の布、梶の葉などを捧げます。
夜になると雅楽から始まり、「披講」(ひこう)という星に歌を詠みあげる行事を経て、「流れの座」という、天の川に見立てた白布を引いて、男性が彦星、女性が織姫になったつもりで、互いに恋の和歌を詠み、歌を扇に乗せてやり取りを行うクライマックスを迎えます。

この冷泉家の乞巧奠は、むしろ、織姫と彦星の一年に一度の出会いの成就を祝う行事として伝えられ、現在も続けられています。

国宝級の発見!「顕注密勘」の藤原定家自筆原本が冷泉家で発見されました

顕注密勘(けんちゅうみっかん)は、鎌倉時代前期に藤原定家(1162年~1241年)によって書かれた「古今和歌集」の注釈書です。
元は六条藤家の顕昭(けんしょう 1130年?~1209年?)によって書かれた「古今和歌集」の注釈書「古今集註」を、定家がひそかに見る機会を得て一部(春歌上巻)を写し、定家自身の御子左家の立場からの自説を「密勘」として書き加えたものです。

和歌文学史研究では極めて重要とされてきた顕注密勘は、多くの写本が残されており、鎌倉時代中期に書写されたものは、筆遣いの高い評価もあり、貴重なものとして国の重要文化財に指定されています。
この定家自筆の書は、800年続く冷泉家の膨大な書籍、資料を継承管理する「冷泉家時雨亭文庫」の全体調査の中で、1896(明治29)年以来約130年ぶりに開けられた木箱の中から発見されました。
今年(2024年)4月18日に発表され、報道などでかなり大きく取り上げられました。

冷泉家に伝わる七夕の行事とのつながりで顕注密勘の定家自筆書の発見を取り上げさせて頂きました。
また、発表されたの記事を読む中で、藤原定家が、「古今集」を始め「更級日記」、「伊勢物語」そして「源氏物語」など数多くの物語集、歌集の書写を精力的に行い、それが現代にまで古典文学として伝えられています。
現在、出版されている数多くの日本古典文学は、定家の写本を底本(原本にもっとも近いとされる書籍)としているそうです。古典文学の継承に非常に大きく貢献したことを知ることができました。
(2024年8月9日記述)

仙台七夕まつり

「青森ねぶた祭」、「秋田竿灯祭り」と共に東北三大まつりのひとつとして、全国的に知られています。
現在の構成の始まりは、1928(昭和3)年に開かれた「第1回全市七夕飾りつけコンクール」で、実行した仙台商人の有志の努力もあり、当時の不景気を吹き飛ばすように、盛大になって行きました。

1939(昭和14)年からの太平洋戦争による中断をはさんで、1946(昭和21)年には小規模ながら復興し、翌年にはコンクールも再開、1948(昭和23)年からは8月6日、7日、8日の3日間の開催となり、現在まで続いています。

「観光七夕」の代名詞のような大イベントですが、短冊、紙衣、折鶴、巾着、投網、屑篭、吹き流しの「七つ飾り」は明治期に確立した仙台七夕独特のもので、製作には和紙を多く使うなど伝統的な側面もかなり見られます。

また、約400年前、仙台藩祖伊達政宗公が、子女の技芸の上達を願う七夕の行事を奨励し、仙台の武家、民家の行事として広がったことや、旧暦7月7日が田の神様を迎える日だったことも、仙台七夕の伝統に今なお生きています。

立佞武多(たちねぷた)

青森県五所川原市の立佞武多は、青森ねぶたや弘前ねぷたなど、県内各地のねぶたとは異なり、縦に長い形をしています。

江戸時代後期から明治時代にかけて大型化したものが、町中に電線や電話線が張り巡らされるようになり、高さが制限され小型化されました。

それが、1996(平成8)年に地元の有志の手で、明治40年代の高さ約27mの古いねぷたの画像から、その復元が試みられた後、1998(平成10)年から、運行される経路の電灯線、電話線の整理が実行され、現在の高さ約23mのねぷたの巡行が復活しました。

ねぶた(ねぷた)は日本各地に伝わっている「ねむり流し」の青森バージョンでしょうか?すでに、「ねぶた」の表示の記録は、江戸時代中頃の津軽藩「国日記」にあり、当初は小型の灯籠だったようです。

1800年代になり、次第に人形灯籠になり、大型化も進み、明治時代には高さが20m級、30m級の巨大ねぶたが現れます。

国の重要無形民俗文化財に指定されている青森ねぶたと弘前ねぷたは特に有名ですが、五所川原市の立佞武多も含め、黒石ねぶた(青森県指定無形民俗文化財)など青森県内30か所以上で、規模の大小はありますが、ねぶた(ねぷた)祭りが開かれます。

茂原七夕まつり



第1回茂原七夕まつりの開催は、1955(昭和30)年です。
1952(昭和27)年に茂原市は誕生しましたが、市の発展のため、商店街の活気を作り出すことが望まれ、商店主たちが話し合い、仙台など各地の七夕まつりの盛り上がりの情報から、開催が決められました。

今では、関東地方の夏祭りの代表的な大イベントとなり、神奈川県平塚市の「平塚七夕まつり」と埼玉県狭山市の「狭山七夕まつり」と合わせ、関東三大七夕まつりと呼ばれています。

七夕飾りは、参加団体ごとにテーマやキャラクターにいろいろな工夫が施され、見て回る楽しさ一杯です。仙台の「コンテスト」と同じような「装飾コンクール」も開かれます。
他に、第23回(1976年)から始まった「もばら阿波おどり」(当初は「もばらおどり」)は、地元の連に加え、東京高円寺阿波おどりの連も参加し、茂原七夕まつりのメインイベントになっています。

2023(令和5)年には、コロナ禍による3年間もの中断を経て、69回目が開催されました。

千代田の大奥 七夕



江戸城大奥の七夕祭りの光景を描いた浮世絵です。

作者は楊州周延(ようしゅうちかのぶ 1838-1912)で、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した浮世絵師です。
越後高田藩の江戸詰の下級藩士、橋本家の長男に生まれ、幼少期から絵を学び、15才で歌川派の浮世絵師となりました。
高田藩の藩士として、戊辰戦争を旧幕府軍の兵士を務めたのち、1877(明治10)年頃から東京で本格的に浮世絵師として、活動し始めます。



江戸城大奥や明治期の宮廷官女、貴族などの美人画の錦絵を多数発表し、大人気となり、優れた明治浮世絵師として高い評価を得ています。
「千代田の大奥」は、「朝野叢書 千代田城大奥 上下」(永島今四郎・太田義雄著 1892年)を107枚の錦絵に表現したもので、1894(明治27)年から1896(明治29)年に発表され、当時、ベストセラーになりました。

御座の間の縁端(えんたん)に果物や菓子の供物を盛った白木の台を置き、その四隅に葉竹を立てて、灯明を備えました。
そして、奥女中それぞれが自作の歌を書いた短冊を御年寄(大奥の最高権力者)に渡し、御台所(将軍の正室)に披露された後、笹竹に結び付けられました。
江戸城大奥の七夕の節句は、大奥女中の中でも、将軍や御台所に会うことのできる「お目見え以上」の地位の奥女中の行事でした。

京の七夕さん

「七夕さん」は江戸時代後期から明治中期頃まで、京都市内に伝わっていた、15~16㎝程の和紙でできた着物です。
着物のデザインは当初は木版刷りでしたが、明治になると石版印刷となりました。
形は振り袖や小袖を主体に、羽織や袴(はかま)、裃(かみしも)などもあります。
デザインは専門業者によるもので、洗練された図柄が数多く販売されました。

「七夕さん」は、京都市中心部の中京区や下京区の寺子屋に通う子女たちが作りました。

七夕の頃になると、専門の業者が着物の型が刷ってある紙を持ち込み、子供たちはそれぞれお気に入りをひとつ選び、裁縫の上達の願いを込めながら、本物の着物を縫うように仕立てました。
機織りの上達を願った七夕祭り本来の形に通じていたのでしょうか。

一時は完全にすたれ、アンティーク品として「京都の七夕雛」と呼ばれ、オークションサイトで出品されるなどしていましたが、2000(平成12)年に京都文化博物館で開催された特別展「京の五節句」を機に商品として復活し、現在も博物館の和紙専門店「京都楽紙館」さんで販売されています。

七夕菓子 乞巧奠(きっこうでん)―星のたむけ7種


七夕ズバリの「乞巧奠」という名のお菓子があります。
京都市中京区の和菓子店「亀末廣」さんが、毎年6月末までに予約受付し、7月6、7日の2日間に限り販売されます。
亀末廣さんは、1804(文化元)年創業の7代続く、京菓子の伝統を守り続ける老舗で、江戸時代には、二条城(徳川家)や御所に菓子を納めていました。

菓子「乞巧奠」は、杉製のお盆に七種類の和菓子がセットされており、それぞれが有職故実から由来するものとされています。
天の川(道明寺羊羹) 願いの糸(葛)  索餅(求肥)  梶の葉(こなし)  あり(=梨)の実(薯蕷じょうよ)鞠(落雁)  瓜つふり(外郎 ういろう)の7種類です。 
※()内は和菓子の種類です。その詳細は略させて頂きます。 

平安時代の有職故実書「江家次第」(ごうけしだい)に宮殿で行われた七夕の様子が詳しく書かれており、糸・あり(梨)・瓜はその内容に一致しました。(本文を読んだわけではなく、時間をかけて検証などしていません。)

亀末廣さんが、どのような意図でこのお菓子を考案されたかは分かりませんが、
七夕祭りの伝統的な姿を、目に見える形でお菓子で再現してくれているように思います。
また、「京のよすが」という、年間14回内容が変わる干菓子のセットにも惹かれました。

松本の七夕人形

松本市とその周辺の七夕人形は、全国的にも例のない形の、そして、今もしっかりと伝えられている、独特の七夕文化です。

松本市立博物館が収蔵する「七夕人形コレクション」45点が、国の指定重要有形民俗文化財に指定されたのは、1955(昭和30)年で、間もなく70年を迎えます。

松本の七夕人形は、木板製の上半身に腕木を付けた男女一対の人形に着物を着せる形式と、男女一対のやはり着物を着せた紙雛の形式の二種類が主流です。
松本市立博物館が所蔵する人形は、七夕行事の中の人形や着物を飾る習俗の変化の流れを考える上で、とても貴重なものです。
今も4軒の人形店で、押絵人形、松本姉様そして押絵雛と共に製作され、地元の人々の中に生き続けています。

※別途、改めて、もう少し詳しくご紹介できたらと思います。