八積湿原の記憶

各コーナーの内容について

ご紹介している各コーナーの記述内容は、誤りの訂正、表現の修正、追加の記述などを適宜行います。
大きな修正変更の場合を除き、履歴を明記することは、控えさせていただきます。

01. 八積湿原について

2023(令和5)年前期のNHK朝ドラ「らんまん」で神木隆之介さん演じる主人公「槙野万太郎」は植物学者 牧野富太郎博士を主人公に構成されたドラマです。そして、牧野博士自身への注目度も高まったようです。(その注目度の内容はいろいろあったようですが。)

牧野博士の八積湿原についての評価の内容は、資料を閲覧していないため、ご紹介できませんが、モウセンゴケやタヌキモ、ミミカキグサなどの食虫植物、サギソウ、トキソウなどの湿生植物など水辺を好む多くの種類の植物が生育していました。
また、八積湿原の形成される過程も、今後、ご紹介できたらと思います。

九十九里沿岸の地域には、かつては海だったのでしょう、規模は八積湿原ほどではありませんでしたが、池を伴った湿地が点々とありました。しかし、1970年代初め頃には、生活排水などの流入ですでに汚れている状態だったと記憶しています。

八積湿原は、茂原市の市街地からも近く、むしろ、1970年代まで、都市近郊に比較的大きな姿で残っていたこと自体、珍しいことでした。
年代はすでに高度成長時代の真っ只中で、開発優先は免れません。消滅する運命だったと言えます。

地元の方々も、湿原の重要性は認識しておられたようで、長生村の尼ヶ台総合公園湿生植物園への移植を試みるなど、植物の保護への努力も伝わっています。
しかし、広大な湿原のすべてを移転させることなど、もちろん、不可能ですし、たとえ、貴重な種類の植物だけでも選択し、移植したとしても、定着させるまでに管理し続けなければならず、その人員確保などの経費も相当なものになります。

今、湿原があった付近には、有機ELディスプレイ、産業用ラジコン、ドローンなどの大手製造メーカーである双葉電子工業株式会社が広範囲の敷地で事業を行ない、地域経済を支えています。

02. 八積湿原を訪ねました

カヤカヤファーマーが、八積湿原を訪ねたのは、1974(昭和49)年5月で、当時は、そして、実は最近まで、「八積湿原」という名称の湿原があったことを知りませんでした。

結果として、八積湿原を訪れることとなったのは、2万5千分の1の地形図の「上総一ノ宮」の当時の図版で、外房線八積駅近くに大きな湿地が示されていたからです。
目的は「ベッコウトンボ」というトンボの採集です。ヨシ、ヒメガマ、マコモなどの抽水植物が茂る豊かな環境の池や沼に生きるこのトンボは、この時点でも、東京近郊ではほとんど姿を消しており、日本全国でも珍しい種類の中に入っていました。
1960年のデータに、「茂原市」と表示されたベッコウトンボの記録があり、”もしかするとまだいるかも”程度の考えで、行くことにしました。

隣接する長生郡白子町の八斗(はっと)に親族が住んでいたことから、夏休みになると、長い期間転がり込み、遊びまわっておりました。

1974(昭和49)年5月12日
当日は、日曜日でよく晴れていたかと思います。午後には東京に帰らなければならないため、午前中しか、活動できません。白子町の親戚宅を早朝に自転車で出発しました。

到着したのは、長生村金谷台の域内だったと思いますが、地形図上の道を進むと、松林の間が次第に湿地状になり、小さな沼になっており、探し回ることも無く、沼の上を目的のトンボ、ベッコウトンボに出会うことができました。
飛んでいるベッコウトンボは非常に活発、敏捷で、採集するのは難しかったのですが、ヨシやマコモなどの葉にもよく止まっていたので、採集できました。

当時は、よく分からない変なポリシーがあり、「オス、メス一頭ずつしか採集しない!」と決めていたため、今、手元にも標本はそれだけしかありません。
標本をご覧いただきます。(後年、茨城県竜ケ崎市で採集できたオスの個体も横向き画像として合わせておきます。)

翌年(1975年)、再度、訪れた八積湿原では、驚くほどの早さで埋め立てが進められ、ほぼ跡形もないという状態でした。

それは残念には思いましたが、当時は、関東近郊の池や沼は、当たり前のように埋め立てられ、消えていった時代でしたので、過度に深刻な悲しさなどはなく、仕方ないか程度で終わってしまいました。

03.ベッコウトンボと八積湿原

ベッコウトンボの分布域は、上の図でご覧頂いている通り、本州では静岡県磐田市(桶ヶ谷沼)、山口県山口市(阿知須)の2か所だけとなっており、四国は消滅、九州には点々と生息地が残っている状態です。
なお、日本以外では、朝鮮半島と中国にも分布しています。
出現期は、4月下旬から6月頃で、春のトンボとも言えます。

ベッコウトンボ(学名:Libellula angelina Selys 1883)という、限られた環境にだけに住むことができるトンボが八積湿原に生息していたことは、植物の宝庫だったことに加え、昆虫などの生物の種類も豊富だったということになります。
ベッコウトンボにしても、成虫になって間もない一定期間は、水辺から少し離れた林などで生活するため、生息できる環境には、湿原だけでなく、八積湿原にみられた松林などが必要でした。

そのような、湿原本体の湿生植物の豊富さだけではなく、ハンノキのような水辺を好む樹木も多かったと記憶しています。
いろいろな面から、八積湿原の生態系の豊富さをご紹介させて頂きましたが、その中でも、ベッコウトンボの生息は、際立ったものだと思います。

また、完全に湿原状態になって、滞留する水が減っても、生息できなくなってしまいます。
開放された水面をがまばらにある池沼が生息環境には適しています。八積湿原には、そのような環境も備わっていました。

ベッコウトンボの保護について

ベッコウトンボは、環境省レッドデータブック(4次)では、「ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの」ということで、「絶滅危惧ⅠA類」に登録さています。1994(平成6)年には、国内希少野生動植物種にも指定され、「種の保存法」に基づき、捕獲などは禁止されています。

また、1996(平成8)年には、鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田池(さつませんだいし けどういんちょう いむたいけ 当時は薩摩郡祁答院町)の生息地(153ヘクタール)が、種の保存法に基づく「生息地保護区」に指定されると同時に、「ベッコウトンボ保護増殖事業計画」が環境庁(現環境省)、文部省(現文部科学省)、農林水産省の合同で策定され、国の事業として、種として日本で継続的に生息できるように保護されています。
なお、2005(平成17)年に藺牟田池はラムサール条約に登録されています。

現実の生息状況は、2009(平成21)年の渇水で、ベッコウトンボの個体数がかなり減少したようですが、地元の方々、市民団体、薩摩川内市が協力して、簡易水道を引くなど、相当な努力により、その生息の継続と個体数の回復が確認されているようです。

静岡県磐田市桶ヶ谷沼のベッコウトンボの生息状況
2か所となった本州のベッコウトンボの生息地のひとつ、静岡県磐田市の桶ヶ谷沼については、磐田市のほぼ総意で保護活動を行っている、いい意味での珍しい例かと思います。

やはり、一度、個体数の激減を経験し、それでも、ベッコウトンボの生息を維持させ、数を回復傾向にまで行きつけた、その総力は、驚きを感じます。
2022年の状況報告の静岡新聞の記事をご覧頂きます。
(PDF化しています。一部の画像を補正削除しています。)

同時に観察できたトンボ
八積湿原を訪ね、ベッコウトンボと同時に見ることができたトンボをご紹介します。すべて、後年、三重県で屋外で撮った画像になります。

コサナエ(学名:Trigomphus melampus (Selys 1869))
サナエトンボ科という種グループに属する一種で、主に4月から6月を中心に成虫が現われます。
平地から丘陵地の林に囲まれた池や沼、湿地に生息します。

日本だけに生息する種類で、北海道と東日本が生息域の中心ですが、紀伊半島の一部にも分布域があり、そこに住む個体は東日本の個体に比べ、とても小さくなります。


八積湿原では、当時、多くの個体を見ることができました。
千葉県内でも、すでに少なくなっている種類ですが、再発見の可能性は比較的高いかと思います。

サラサヤンマ(学名:Sarasaeschna pryeri (Martin 1909))
ヤンマ科のグループに属し、その中でも、最も早く分岐した種類とされています。
平地から丘陵地の低湿地にすみ、5,6月を中心に成虫が現われます。比較的珍しい種類です。

八積湿原では、ハンノキの生えた湿地帯の上を、独特のホバリングを交えた縄張り飛行をするオス、羽化して間もない黄色味が強いオス、湿地の倒木に止まり産卵のような行動をとっていたメスなどと短時間にいろいろな姿を見ることができました。このような状況を見ることは、以降、一度もありません。
サラサヤンマは、珍しい種類ではあるのですが、市街地でも思わぬところで出会うことがあり、農園の資材用ハウスの扉にオスが止まっていて、驚きました。茂原市西部の丘陵地にはどこかに生息しているかと思います。

アオヤンマ(学名:Aeschnophlebia longistigma Selys 1883)
ネアカヨシヤンマに近い、ヤンマ科の一種です。
平地から丘陵地のヨシ、マコモ、ガマなどの抽水植物が茂る池や沼、湿地に生息します。5,6月を中心に8月上旬頃まで現われます。
やはり、珍しい種類に入ります。

八積湿原では、オスの縄張り飛行がベッコウトンボと同じ場所で見ることができました。その飛び方は、他のトンボと異なり、ヨシなどの植物の間をやや低く、何かを探すようにふらふらと、複雑に飛びます。実際にメスを探しているのです。
体色は鮮やかなライトグリーンで優雅ささえ感じますが、性質はかなり荒く、他のトンボはもちろん、大型のクモを襲い、食べてしまいます。
ベッコウトンボに比べ、生息環境の選択がやや広いため、茂原長生付近でもどこかに生息している可能性はあります。