お孫さんの初節句用に作られた本納袖凧(平成初期 茂原市弓渡の農家さん宅にて)
ご紹介している各コーナーの記述内容は、誤りの訂正、表現の修正、追加の記述などを必要に応じて行っています。
なお、大きな修正変更の場合はその内容を明記させて頂きます。
01.袖凧とは
袖凧は、今では、房総半島だけに伝わっていますが、昔は日本各地にあった凧とされています。
1773(安永2)年に刊行された、江戸で流行した玩具の絵本「江都二色」(えどにしき)に、袖凧が見られます。
上総袖凧との違いは、骨組みと頭の有り無しです。
袖凧と鳶凧と一緒に書かれた歌については、凧を揚げる時の子供たちの掛け声に、凧を「蛸(タコ)」にかけて「落ちたら食べちゃうぞー」というはやし言葉があり、それを踏まえて、雷(かみなり)凧を付け合わせ(凧は)「紙なり」つまり「紙で食べられません」と詠んだものです。
江戸時代の玩具絵本で、享保年間(1716~36)から安永年間(1772~81)頃の江戸で流行した玩具全88種が描かれています。当時の玩具や子供たちの生活を知る、貴重な資料とされています。
※江都二色は、国立国会図書館の「NDLオンライン」でデジタル化されており、登録なしで、読むことができます。但し、「江都二色」で登録されている書籍がすべてオンライン閲覧が可能という訳ではありません。また、PDFファイルで、ダウンロードもできますが、PDF閲覧ソフトが古いバージョンの場合、パソコン上で開けないこともあります。
群馬県高崎市の袖凧です。昭和初期の作で、今は作られていません。
隣の前橋市にも、ほぼ同じ袖凧がありました。
画像は、群馬県立歴史博物館に寄託された、山鹿郷土凧コレクションからとなります。
スマホで国立国会図書館サーチ「NDLイメージバンク」を見ていたところ、江都二色と同じように、「寺社境内名物集」という書籍に出会いました。
発刊は、明治年間のようですが、その中に富山県の袖凧を見つけました。
東隣りの新潟県には、伝統的な和凧の記録、伝承が豊富ですが、富山県の凧は余り知られていません。必ず、どこかで凧は作られていたと思います。
この凧は、上総袖凧に脚を付けた形をしていて、イメージもほぼ一緒という感じです。
知ったばかりで、詳しく調べた訳ではありませんが、すでに消滅しているかと思われます。
(2024年3月8日記述)
また、山口県萩市の離島、見島に伝わる「鬼ヨーズ」という凧も袖凧の一種とされています。
見島(みしま)は、萩市の北約45㎞の日本海に浮かぶ孤島です。
大陸との交易により栄え、1000年以上の歴史を持つ島です。
こちらの鬼ヨーズ(ヨーズ=凧)も平安時代から伝わるものとされ、家に初めての男児が誕生した時、親族総がかりで大きな鬼ヨーズを作り、正月に揚げる風習が伝わっています。
現在も多田一馬氏が小型にした鬼ヨーズ製作の伝統を守っています。
(2024年8月14日記述)
02.上総袖凧の構造
1,骨組み 製作地により多少の違いはありますが、「01.袖凧とは」で示した骨組みで一致しています。
房総半島は竹は豊富ですから、地元で凧作りに適した竹を得やすかったことも、袖凧が盛んになった要因のひとつです。
一方で、刈った竹を実際に凧に使うまでの処理方法は、製作地によって異なっていたようです。(04.で触れさせていただきます。)
竹骨は、小型の凧には、そのまま紙に貼りましたが、大型の凧には細く切った和紙をらせん状に貼りつけた「巻き骨」にして、紙との密着度を高めるようにしました。
骨組みは、縦1本、横3本の単純な構成で、しかも、江戸奴凧などのように、竹骨が曲線を取ることも無いところで、和凧として、他に見られない構造です。
2,紙 主に西ノ内紙という和紙が使われました。この「西ノ内」という名前は凧の大きさを表す、いわば単位としても用いられています。
西ノ内紙の規定サイズは一尺一寸×一尺六寸(33cm×48cm)です。従って、「西ノ内2枚」の大きさの袖凧は66(33×2)cm×48cmを基準に作られるということになります。現在も、その基準は受け継がれています。
幼児、児童用の凧には、あまり丈夫ではない、低質の紙を使ったと思われます。
古代から作られている楮(こうぞ)だけを原料にした和紙で、茨城県常陸大宮市の旧山方町周辺で生産されています。
特徴は、比較的薄いものの、強くて破れにくく、保存性に優れているところです。
すでに、8世紀には製造されていたとされ、平安末期からは佐竹氏、江戸時代には水戸藩により守られ、盛んになりました。江戸時代には、商家の大福帳に多く使われました。
明治以降、産業としては衰退しますが、時に、より革新的な美濃紙の技術を取り入れるなどの努力もあり、その技術は継承され、西ノ内紙としての生産は今も続けられています。
3,うなり 袖凧には欠かせない付属品です。うなりは凧の裏面の両肩に取り付ける弓状のものです。
「ヴーン」と響き渡るその音は、揚がる凧の姿の存在感を高め、初節句などの際は、お祝いの盛り上がりに一役買いました。
弓の握(にぎり、弓柄)の部分は竹や葦(よし)を使い、音を出す弦(げん)には昔は鯨のひげを使いましたが、手に入れることが難しくなったため、籐(とう)を薄く削ったものになりました。今では、化学繊維のフィルムが使われています。
4,糸目
左図のように、糸目を取り付けます。
小型の凧は主糸目だけで揚げられたかと思います。
大型の凧の控え糸目は、空中に浮ぶ凧のブレを防ぎ、安定させます。
また、糸目の長さですが、凧の大きさの西ノ内1枚に対し、1間(約1.8m)と言われていたようですが、この通りに計算すると、左図の西ノ内18枚の凧の糸目の長さは、1.8×18=32.4mとなります。
実際に凧を揚げる際、その日の風の強弱により、糸目の調節を行います。
03.上総袖凧の習俗と図柄
袖凧は、正月に玩具として子供たち中心に揚げる一方、むしろ端午の節句の頃に揚げる方が盛んでした。
(上)古今記録 挿絵
(左)故郷姉崎町年中行事 端午の節句
こちらは、旧千葉県市原郡姉崎町(現在の市原市姉崎地区)明治末期の端午の節句の様子を描いた貴重な資料です。
とても活き活きとした、臨場感あふれる姿で描かれています。
空を舞う袖凧と道の真ん中で揚げられようとされている大型の角凧を見ることができます。そして、現在も同地の「大黒屋」さんでどちらも製作が続けられています。
「故郷姉崎町年中行事」は1910(明治43)年3月頃の完成、明治期の姉崎で行われていた行事・習俗と神社仏閣・風景を描いた58枚2冊の画集です。
廣瀬蘆竹(ひろせろちく 1842(天保13)年ー1913(大正2)年 )で、その依頼者は斎藤孝氏(1877(明治10)年-1967(昭和42)年)です。斎藤氏は、郷土史家で、私財を投じて、地元姉崎の史跡保全と後世への継承に努められました。また、姉崎の歴史、先達を紹介する、「古今記録」「古記録」を編纂し、その挿絵も廣瀬蘆竹が描いています。
※「故郷姉崎町年中行事」、「古今記録」は、デジタル化され、バーチャル資料館「姉崎郷土資料館」サイトで閲覧できます。
こちらから、「姉崎郷土資料館」をご覧いただけます。
袖凧の代表的な図柄をまとめてみました。
定紋とその派生柄(1~4、12) 男児誕生の際の初節句にその家の定紋(正式な家紋)を描いた凧を揚げました。その後、中央の丸囲いに武者絵を描いたものや、願い事の文字、記念物など一般の方が自分で描けるものにも広がっています。
(12の図柄は、ヒメハルゼミです。)
鯉金(5,6) 金太郎の「出世鯉生け捕り」の構図で、人気のあるモチーフのようで、各凧屋さんがそれぞれの描き方で作られています。
文鶴(ふみづる) (7,8) 鶴が大漁を知らせる文を届けに来るという、非常に縁起が良いとされるモチーフです。鯉金と同じく、広く取り上げられているデザインで、やはり、凧屋さんにより、背景や鶴の文のくわえ方などに違いが見えます。
鯉の滝登り( 9 ) やはり、縁起が良いとされるモチーフですが、鯉金や文鶴に比べ、あまり確認できませんでした。資料の閲覧だけなので、実際には各凧屋さんも作られたようにも思われます。
武者絵など(10,11) 初節句などのお祝い用のモチーフの他、武者絵や龍などの図柄は、どちらかというと後から作られた遊戯性のほうが勝ったモチーフです。但し、「勝つ」とか「昇る」とかの祈念は揚げる時のエッセンスとなっていたようにも思います。
袖凧の図柄 画像借用
1、3、5 千葉県指定・伝統工芸師 金谷司仁 「市原ふるれんネット」サイトより
2、4、7、10、12 武蔵野美術大学 美術館・図書館 「民俗資料データベース」サイトより
6、8 凧大百科(比毛一郎著 美術出版社 1997年刊)より
9 郷土玩具 1紙 (牧野玩太郎・稲田年行著 読売新聞社 1969)より
04.房総半島各地の袖凧
上総袖凧が作られた地域は、房総半島東側、九十九里沿岸の南部の勝浦市から、中心地の茂原長生地域を経て、北は銚子市に及びます。さらに利根川を越えて、茨城県大洗町、那珂湊市、日立市にまで伝わりました。
袖凧は、「万祝という大漁を祝い漁師たちに支給された晴れ着の形とデザインをもとにした」というのが一般的な説明となっています。袖凧と万祝との関連は確かですが、製作地ごとに諸説があります。
すでに途絶えた製作地も含め、ご紹介します。
1,現在の製作地
長生郡一宮町 地元での呼び方:上総とんび
現在の製作者は嵯峨野彰氏です。
嵯峨野家は歴史ある袖凧製作者で、初代重衛門の創業は、1791(寛政3)年とされ、現在で10代目に当たられます。
江戸時代には、絵凧は武家、庄屋、網元などに限り、製作や揚げることが許されましたが、嵯峨野家には一宮藩の許可印が出され、その時代の木版画40枚、下絵350種、版木80種が技術と共に伝えられています。
図柄は、上の画像の「出世鯉生け捕り」の金太郎が主体で、鶴や縁起物、家紋、文字など相当な種類があります。
嵯峨野家の袖凧の興隆についての伝承では、安永、天明、寛政(1772-1800)の頃、いわし漁が最盛期となり、大漁の際、120軒の網元が船方(漁師)全員に揃いの万祝着を贈って、玉前神社(たまさきじんじゃ 上総の一宮)に参拝させ、祝宴を挙げました。
10年に一度程度はそのような大漁になったようですが、さすがに莫大な経費がかかるため、1791(寛政3)年から万祝と同じ図柄の凧を揚げるようになり、それが、大漁だけでなく、初節句や新築などの祝い事に凧を揚げる行事が上総全体に広まったとされています。
ある時代には、近隣の農家にも手伝いを得て、年間7万枚の凧を作り、角凧や江戸大森の「大森とんび」という凧の上総総発売元として、取り扱っていました。
一方で、小売りは一切していなかったため、古い書籍、資料には「一宮凧」としての記録はほとんどありません。
長生郡長南町 地元での呼び方:長南とんび
生業として、凧の製作に携わっている方はおられないようですが、保存会もあり、長南町や千葉県もその存在を過去のものにしていないので、製作が続けられているものと思います。
袖凧発祥地のひとつとされる長南の伝承は、享和年間(1801-03)、長南町の表具師・大木忠蔵が、物干しに干された着物にヒントを得て、考案した凧とされています。
大木家の袖凧製作は、4代(吉蔵)の1955(昭和30)年頃まで続きました。
長南袖凧製作の代表的な役割りを果たしたのが星野家です。初代は星野吉五郎(1853(嘉永6)年生まれ)で、経師と凧製作を生業として、節句用と童玩用の凧を作り、それまでの定紋(家紋)と文字のデザインから、絵を描くことを始め、長南袖凧は広がりました。3代目の星野金次氏まで凧の製作は続きました。
弟子も多く、本納町(現 茂原市本納)の矢部家もその系統で、星野家の長南袖凧発展の貢献度は大きいものがあります。なお、角凧も少ないながら製作されていました。
長南町郷土資料館に「長南袖凧」として常設展示コーナーが設けられています。
茂原市 地元での呼び方:袖凧または上総袖凧
茂原袖凧保存会が結成され、文化行事や玉前神社の例祭などに参加され、袖凧の技術や文化の受け継ぎやプロモートに努められています。
また、現会長の鎗田孝雄氏が注文に応じて、年間100枚ほどを製作されているそうで、茂原市内の伝統も今後も継承が期待できます。
1941(昭和16)年に出版された、「郷土玩具展望 中巻」に袖凧の生産者として、斎藤加茂雄の名が上がっていますが、この方は傘屋をしながら、長南の星野家の袖凧や角凧、そして、釜凧(大多喜町製?)などを仕入販売されていたようです。
茂原市本納(旧 長生郡本納町) 地元での呼び方:上総凧または本納凧
本納袖凧は、本納絵馬を伝承する矢部家により、製作されました。
5代目の矢部宏氏が2023年現在も絵馬の製作は続けられており、日本画家としてもご活躍で、しばしば新聞などに取り上げられていますが、凧作りを続けられているのかは、確認できていません。
袖凧の他、絵馬の形をした、絵馬凧も作られていました。
矢部家は、初代の矢部久右衛門が、江戸時代後期に絵馬師として本納で創業し、翠堂(2代目)、きせ(3代目)、華径(4代目)と伝わり、袖凧は3代目の頃、矢部文次郎(関係は不明です。)が長南の星野家から習得しました。
特に宏氏のお父様の華径氏(本名:謙太郎)が絵馬凧の創作や他の袖凧とはモチーフが同じでも、画風がやや違う南画風の絵を描き、独自のイメージの袖凧に仕上げました。
上の画像は、かなり以前に矢部宏氏が作られた袖凧で、カヤカヤファーマーが所有する唯一の袖凧です。手に入れた時点で、かなり傷んでおり、いつか修復しようと思っています。
本納には個人で袖凧を作られる方がいらっしゃるようで、町内の店舗で飾られている凧をよく見かけます。
また、本納凧保存会(名称は未確認です)も組織され、豊岡地区などで、子供たちへの製作指導、凧あげ行事の継承に当たられておられるとのことです。
市原市姉崎 地元での呼び方:袖凧または長南とんび
製作者は金谷司仁氏(3代目)、政司氏(4代目)で2005(平成17)年に角凧も含め、千葉県指定・伝統工芸品に指定されました。
司仁氏の祖父、金谷作蔵氏が東京浅草・日本堤で提灯作りの修業を積み、1905(明治38)年に姉崎に際物店を開業し、後、凧の製作も手掛けるようになりました。
その後、父親である政吉氏(2代目)が1968(昭和43)年葬儀社を興し、「提灯・凧の製造販売」は表看板から外されましたが、地元での人気は高く、凧や提灯(万灯)の製作依頼は続き、現在も袖凧・角凧とも製作されています。
従って、金谷家の事業としては、「姉崎葬儀社」、「姉崎斎苑」、「大黒屋際物店」の3つを経営されていることになります。葬祭だけではなく、伝統的な年中行事が多く伝わる市原市には、欠かせない存在です。
なお、司仁氏は市原市凧保存愛好会の会長も務めたことがあり、会は凧あげの普及、継承活動を始め、資料の保存、発掘にも取り組んでおられます。
袖凧の図柄は、長南などと同様に、金太郎の出世鯉生け捕りを中心に万祝起源のものから、定紋(家紋)他、相当な種類におよびます。所在地の姉崎は、袖凧の勢力範囲ですが、海沿いは江戸東京との交易上のつながりから、江戸角凧も勢力を伸ばし、それぞれ盛んになりました。
いすみ市 地元での呼び方:上総とんびまたは長南とんび
30年以上前に、旧夷隅郡岬町で「岬町袖凧保存会」が結成され、現在は「いすみ市袖凧保存会」として、地元小学校で袖凧の普及活動などに努められているようです。
2,途絶えた製作地
市原市牛久
製作者の常澄富美夫氏は、長南町の星野家で修行し、市原市牛久で経師、提灯屋、凧屋を兼業し、袖凧は千葉県の指定工芸品に認定されていました。
比較的最近まで、製作されていたものと思われます。
市原市五井
江戸角凧の伝承者として評価が高かった辻儀三郎氏(1889(明治22)年-1982(昭和57)年)は、火災にあって姉崎から移住してから亡くなるまでの37年間、五井で凧の製作にあたりました。伝統的な江戸角凧を作りましたが、袖凧も注文が入ると応じていました。
ただし、袖凧には絵を描くことはなく、定紋または名前などの字に限られていました。
もともと辻家は雪舟の流れをくむ、画業の家系です。
五井の袖凧は途絶えましたが、同地では江戸角凧が小澤昇氏により製作されています。(辻家との関連は未確認です。)
勝浦市
勝浦市墨名(とな)に住んだ牧野善蔵氏が、旅絵師の描く旗のぼりや万祝の下絵を参考に、多数の図柄の袖凧や角凧を作りました。
袖凧は、定紋や文字以外では、左にご覧頂いている通り、鶴などを丸型の中に描くのが特徴です。
いつ頃まで作られていたのかは、分かりませんが、前にお示しした、「郷土玩具展望 中巻」(1941年刊)「勝浦の凧」の項に牧野善蔵の名が紹介されています。
画像は凧大百科(比毛一郎著 美術出版社 1997年刊)より
東金市
日本の凧に関する名著として「日本の凧」(俵有作著 菊花社 1970)がありますが、左の画像と同じものが、モノクロですが、掲載されています。
実際に東金市で作られたものかは、確認できません。
一宮などで作られたものが、販売されて今に残ったという可能性はあるかと思います。
昭和初期の作品とされ、第2次世界大戦を経て残っていることだけでも貴重なのですが、図柄が木版画を構図の輪郭として、色を手彩で施していることも注目です。
一宮や長南の製作地には、版木は残されているものの、現在では、木版画による作品を見ることはあまりないようです。
多くの生産が必要で、袖凧の需要の規模が今とは違っていたのかと思います。
画像は凧大百科(比毛一郎著 美術出版社 1997年刊)より
銚子市
書籍の画像が、唯一の資料の凧です。製作者などは不明です。
恵比寿の鯛抱きと三番叟の図柄は、ともに木版に手彩色で描かれています。
どちらかと言えば、お祝い用というより、玩具として用いられた印象です。
形のバランスも、他の袖凧と異なり、ずんぐりとしていますが、これは長南の古い型にもあったものです。
画像は凧大百科(比毛一郎著 美術出版社 1997年刊)より
「万祝」は、江戸後期から始まったとされる、大漁の際に漁師たちに配られた、祝い半纏です。
現在は、千葉県指定伝統的工芸品に指定され、鴨川市でその指定製作者2件が、技術を継承し、万祝以外に品目を開発するなど、努力を重ねています。
鴨川市のふるさと納税の返礼品としても取り上げれれています。
画像は、白子町歴史民俗資料室で展示されているものです。
05.その他の千葉県の凧
上総袖凧以外にも、千葉県には各地でいろいろな凧が生まれました。詳しくは、機会を改めてご紹介することとし、ここでは、簡単な内容にさせて頂きます。
房総半島西側には上総唐人凧
房総半島西側、富津市の小糸川、湊川水系を中心にした地域には、袖凧とは対照的な複雑な骨組み構造をした、唐人凧(とうじんだこ)が伝わっています。
唐人凧は、九州北西部の島嶼部を含む長崎県、福岡県を中心に伝わる伝統的な凧で、NHKの2022年度後期に放送された、「舞い上がれ!」に登場する五島列島に伝わる「ばらもん」も唐人凧の一種です。
上総唐人凧は、一時完全に消滅状態でしたが、昭和後期から徐々に復活し、保存会などもでき、伝統は守られています。
千葉県内を含め近郊の関東地方には伝わっておらず、全国的に見ても、とても珍しい形です。
判明している伝承の内容や地域ごとの形状の違いなどは、改めてご紹介します。
画像は凧大百科(比毛一郎著 美術出版社 1997年刊)より
江戸角凧
本格的な江戸凧師の工房が長生村にあります。
「凧工房とき」の土岐幹雄氏は、東京デザイナー学院でグラフィックデザインとイラストレーションを学んだ後、名人の太田勝久氏に師事し、江戸凧師になられました。
制作される凧は、絵柄も製法も江戸凧の伝統を踏まえ、空に揚げることにもこだわりをお持ちです。
また、長い期間、幾度も海外に出かけられ、江戸凧の国外へのプロモート活動も積極的に行っておられます。
自らwebサイト「お江戸の凧屋さん」を作られ、ネット販売もされています。
「ふるさとちば古写真デジタルアーカイブ」より「九十九里浜の凧揚げ」
1967(昭和42)年5月3日 山武郡九十九里町 林達雄氏撮影